戦うことを忘れた国家

日本の安全保障として代表的なものと言えば「自衛隊」である。軍事力はそこそこあるものの、憲法9条では交戦権も認められず、先制攻撃も許されていない。「憲法9条」の足枷がここにある。

自衛隊があると必ずと言ってもいいほど「軍隊だ」と主張する人も多く、憲法9条を標榜して自衛隊解散をと主張する人もいることだろう(どの政党とは言わないが)。さらに悲しいことに自衛隊が弱くてもアメリカ軍の傘があるのだからという人もいるのだが、中国などのアジア諸国の監視の役割もあるため必ずしも日本を守るというわけではない。いざというときに日本の防衛力というのが大事になるだけではなく、住みよい日本にするためには防衛力も大事になってくる。本書は日本の軍事力の衰弱を嘆きながらも、安全保障の重要性について書かれている。

第一章「国家が戦わなければならない場合」
戦後60年以上横たわっているのは何も戦後補償のことばかりではなく、北方領土・竹島・尖閣諸島の領土問題が横たわっている。戦後補償に限ったことでもなく、捕鯨問題や条約、外交に至るまで、「武器を使わない戦い」というのは必ずある。
いわゆる「駆け引き」というものである。

第二章「なぜに戦うことを忘れたのか」
「戦う」と言うと本書は安全保障に関する一冊であるため、軍事において「戦う」という定義に戻す。日本は敗戦後、GHQにより軍は解体され、日本国憲法によって軍備が認められなくなった。しかし1950年の朝鮮戦争により、GHQの意見は覆され、軍備をするように命令された。当時の吉田茂首相は憲法解釈を展開することによって警察予備隊(後の自衛隊)を創設することとなった。文字通り自衛のための舞台であり、武力もそこそこあるのだが、役割はほとんど自衛のためというよりも災害派遣と言ったことの方が多いようである。最近はイラク戦争での後方支援や海賊船での後方支援といった役割を果たしているが、国際的に見たらどのように評価されているのか気になるところである。

第三章「惰眠と覚醒の間」
かつて中国大陸(当時は「清王朝」)は「眠れる獅子」と言われていた。しかし阿片戦争や日中戦争によって眠りは続き、経済的に成長し始めてからその獅子は目覚め始めたといってもいいのかもしれない。これからの経済や政治、軍事にかかわるものまでとあらゆる国際問題は中国なくして語られなくなるほど強大な力を得ることになった。
本章では「惰眠と覚醒」というのを考えると中国のことについて書かずにはいられなくなるが、日本の軍事に関しても同じことが言えるのかもしれない。

第四章「戦える国家に脱皮するには」
戦える国家になるためには…と言うと「軍備を拡張する」というのもあるが、それ以前に憲法改正も必要になる。それに伴って、これから衆議院総選挙がおこなわれるが、いい加減に考えずこれから日本はどうあるべきかというのを国民一人ひとりが考えながら投票を行わなければならない。そうでもしないと「経済は一流、政治は二流、国民は三流」という呪縛のままになる。それを脱却するためにも自ら日本を変えるという意識を持つことが今回ための選挙でも日本の未来でも試されることだろう。

安全保障について書かれたものであるが、福祉や税と言った生活に関連するところが浮き彫りとなっているが、それ以上に必要なのは国としてどのような道をたどればよいのかという思想と、そして国を守るための「国防」、そして国際的にも有利にするための「外交」である。
何度も言うが今度の選挙は政権交代や生活と言ったものがフィーチャーされているが、どの道選ぶのは私たちであることを忘れてはならない。