無差別殺人の精神分析

昨年の6月に秋葉原無差別殺人事件が起きてからもう1年と2カ月経つが、その事件の傷跡はまだ残っている。それだけではなく度重なるインターネットにおける掲示板での「殺人予告」が後を絶たず、これから無差別殺人が起こるか分からない状態である。先ごろでも数々の無差別殺人事件があり、国民たちを恐怖に陥れている。本書はここ最近起こった無差別殺人事件を精神医学的に分析を行っている。

第一章「秋葉原無差別殺傷事件」
2008年6月、歩行者天国の一つと言われ、オタクたちのメッカとも言われた秋葉原に惨劇が起こった。猛スピードで走ってきたトラックが、歩行者をめがけて突っ込み、そこから犯人の男がおり、無差別に歩行者を切りつけた。7人の命が奪われる大惨事となった。
犯人は派遣労働者で、家庭環境からスパルタ教育を受け、友だちも彼女もおらず、不満ばかりが募る毎日であったという。
犯人がどうであれ、自分の感情によって人の命を殺めたというのは絶対に許されないことである。その一方で、この犯人をここまでの状態にさせたのかという事情も鑑みる必要はある。ひいては日本社会が抱えている病巣の一つが見えてくるのかもしれない。

第二章「社会全体に対する復讐」
ここでは99年に起こった「池袋通り魔殺人事件」と「下関通り魔殺人事件」について取り上げている。99年というとノストラダムスの「恐怖の大王」が降ってくるとか何とか言われていた時期であるが、その年は上記の通り魔殺人もあり、光市母子殺害事件もあり心の闇というのが浮き彫りになった事件ともいえる。きっと心のなかに「恐怖の大王」が飼われそれが、この形となって爆発したのかもしれないが、両通り魔殺人にある闇がどういう風に増幅させたのかという所を本章では考察を行っている。
章題では「社会」と書かれているが、労働の場、学びの場、そして家庭での複雑な環境におかれたことにより、復讐感情が芽生えたのだろう。
こういった殺人事件においては必ずと言ってもいいほど「精神鑑定」というのにかけられ、そこで「心神喪失」か「心神耗弱」か、あるいは責任性があったのか、なかったのかというのがかけられる。これは「刑法39条」に当てはまるかどうか調べるためであるが、これについての論議は殺人事件の起こるたびに叫ばれる。精神鑑定は行われるべきではあるものの、そういった医学にも今でも限界はあるということは忘れてはならないし、精神医学はまだまだ課題は山積しており、廃止すべきではないと考えている。

第三章「特定の集団に対する復讐」
おそらく多くの傷跡を残した事件として知られる「大阪教育大池田小事件」、アメリカで起こり、全世界を恐怖の底に陥れた「コロンバイン高校銃乱射事件」「ヴァージニア工科大銃乱射事件」を取り上げている。
いずれも無差別殺人でありながら計画的な殺人を行っている事件である。ここでは家庭関環境というよりもむしろ私怨が増幅させていき、その憎悪の捌け口を小学校殺人に持って行ってしまった。学歴コンプレックスによる「エリート」に対する憎悪が、そのタマゴである小学生に向けられた。
このコンプレックスによる復讐劇は「コロンバイン高校銃乱射事件」や「ヴァージニア工科大銃乱射事件」においても同じことが言えるかもしれない。

第四章「無差別大量殺人は防げるか?」
以上の事例を踏まえて、「無差別大量殺人」は防げるのかという議論に入る。
それぞれの事件の動機というのは様々であり、「誰でもよかった」という供述もある。これは社会のせいなのか、それとも自ら育った家庭環境によるものだろうかというと一概にこれだということは言えない。しかしそれらの環境のなかで不満や憎悪という負の感情が募り、自ら持っている破壊的衝動があるところで抑えきれなくなったというべきだろう。

第五章「殺戮者を生み出さないために――何が抑止力になりうるのか?」
では殺戮者を生み出さないためにどのようにしたらいいのかというと具体的な策というのはなかなか難しい。心理学的に何か策があるように思えるのだが、打つなどの精神的な病の原因も多岐にわたることから「それぞれにあった予防線を張る」ということしか答えが見つからない。かといってそれを張っていても完全に無差別殺人が起こらないのかというと、まず撲滅はしないだろう。

人間には誰しも破壊的衝動という魔物が眠っている。その衝動を抑えるために理性といったものが備わっている。しかし環境によってその理性というのが破壊されたり、弱体化したりする。ではその破壊や弱体化を抑え、理性を保つにはどうすればいいかという糸口は様々であり、正直なところ私でも答えに窮する。精神を保つというのは難しいというべきだろうか。