老いを照らす

まだこの年齢であるので、「老いる」と言うのはまだ先になるかもしれない。しかし「老後」と言うのを考えるというのに早すぎも遅すぎというのはない。ただ遅すぎても「手遅れ」と言われることもあれば、早すぎると、老後にならないうちにポックリということになればシャレにならない。

人は誰しも「死」は訪れるが、「老い」に関しては訪れる人もいれば、中には訪れない人もいる。しかし今日は高齢化社会と言うのを考えると「老い」に対して何かしら考える必要がある。

本書は小説家界の大家と呼ばれる瀬戸内寂聴氏が老いに関する法話や講演の中から特に印象的なものを選び抜いたものである。

第一章「老いと向き合う」
本書は一昨年に東京と大阪で行われた「仏教新発見」の講演会を加筆・訂正して書籍化したものである。傑作選かと思ったら「講演録」といった方が良かっただろう。
人は誰しも老いるし、確実に「死」は待っている。死後、私たちはどのように評価されるのかはすでに天国にいるので、生の声で聞くことはできないかもしれない。
しかし、自らの「死」と言うのを想像する、もしくは「死ぬ」ために自分は何を為すべきだろうか、どのようにして「老い」たいのかというのは常々考えなくてはならないことである。
その代表格として当ブログでも取り上げた小説「秘花」と言うのがある。これは世阿弥が晩年ありもしない罪によって佐渡島に流された時の晩年について数少ない史料を用いて描いた作品である。世阿弥は能を大成した人物しても知られているが、流刑地の佐渡島では人との温もりと能で鍛え上げた芸をさらに磨いた(稽古した)とも言われている。
著者も今では有名になっている「源氏物語」の現代語訳を行ったのは70歳に入ってからであった。

第二章「祈りの力」
瀬戸内氏は若かりし頃、仏教の「ぶ」の字も興味がなく色盛りであったと言われている。その後に作家として小説を投稿し、34歳に処女作を発表した。それから約7年間は批判にさらされながらも数多くの賞をとったものの、その後30年以上鳴かず飛ばずであった。仏教に帰依したのは1973年、51歳の時である。その前からどのような宗教でもいいから、宗教に帰依したいという願望が強かったという。これも「老い」と「死」について関係しており、自らの「老い」と「死」を鑑みるために宗教に帰依したかったのだという。
誰しも一度は「老い」や「死」と言うのを考えたことがあり、瀬戸内氏も例外ない。ただし瀬戸内氏はそれに関する考え方が非常に強く、それを宗教の消えによって答えを求めた。
私もそれらに関して様々な文献を通して考えてきているのだが、いまだに答えは見つからない。もちろん人によって答えは違っており、方や複数答えのある人もいれば、答えがないというのもある。
人にとっての幸せ、不幸、充実、人生、労働……と答えのない命題と言うのは数多くある。それは禅問答のように、自分の心で問いただす人もいれば、瀬戸内氏のように宗教に帰依して答えを導き出そうとする人、私のように哲学や宗教書といった文献を通じて答えを求めようとする人それぞれであるが、方法論は違えど考えなくてはいけないことばかりと言える。

第三章「老いのかたち」
ここでは瀬戸内氏の周りの老いと死について書かれているが、交流が広いからか文学者が多かった。特に三島由紀夫や川端康成、井上光晴などが挙げられている。

第四章「世情に抗する」
今日の事情と言うと「活字離れ」「テレビ離れ」「インターネット依存」と言うように人によっては「悪い時代」と考える人もいる。とりわけ私が思っているのは「活字離れ」と言うよりも、平易な表現ばかりが罷り通っている「語彙離れ」と言うのが深刻である。最近ではビジネス書がブームとなり、ビジネス書部門の販売状況が良くなっている傾向にある。ビジネス書は本によるが平易な表現を用いており、読みさすさ重視というものが多く、日本語特有の多様な表現を使うことがあたかも禁じられているように思えてならない。
他にも老人の扱いやいじめといったものに関しても取り上げており、著者は命ある限り声を上げていこうと決意している。

「老い」と言うのは必ずやってくるが、それは自分が「老いている」とは考えずにいつの間にか「老いている」と思っていた方がむしろ楽しく老いるのではないかとさえ思う。瀬戸内氏は老いても豪放磊落な性格でありながらも、史料研究や仏教における修行と枚挙に暇がない毎日を送っている。本書を読んでふと思うのが自分の「老い方」を考えるのは大切かもしれないが、それと同等、もしくはそれ以上に今を生きるということも大切なのではないかと本書で教えてもらったような気がしてならない。