環境を知るとはどういうことか

神奈川県三浦半島に存在する「小網代」。本書の著者(2人+α)は小網代の自然の中で何を得てきたのだろうか、両者は小網代を通じて何を考えさせられたのだろうかということについて虫取りを行いながら、対談を行った一冊である。

第1章「五月の小網代を歩く」
五月はちょうど梅雨に入る少し前、夏日になる日もあり、寝苦しくなりだす時でもある。
本章はこの「小網代の森」を探検しながら、様々な生物と出会うという所である。読みながらあたかも小網代の森を探検しているような錯覚に陥る。
ちなみに本章のも普通の新書と違い、様々な生物のカラー写真が掲載されている。そのためか新書を読みながらでも自然と戯れているような感じであった。

第2章「小網代はこうして考えられた」
著者の一人である岸由二氏は長年小網代の環境保全活動を続けてきている。それと同時に鶴見川の環境保全の活動も行っており、本章で岸氏はそれに対する思い入れをぶつけている。
もっとも岸氏は養老氏の前書きに記しているとおり、あまり著書が存在しない(とはいえど数冊は書かれている)。
岸氏は幼いころから鶴見川流域に暮らしているというから、それに対する思いは強いというのが窺える。

第3章「流域から考える」
本書は生物学と言うよりも「地学」の領域であり、社会系学問でも「地理学」と言うのが存在するが、それも少し触れられている。
本書の副題にある「流域思考」であるが、その中で「流域」とは一体何なのかと言うと、
「ある川が降水を集めている範囲。また、川の流れに沿った両岸の地域。(goo辞書より)」
と定義されている。海から枝葉のように川が分岐されるが、その本流に当たるか分から支流の末端までの面積のことを指している。面積の広さではアマゾン川流域が世界一であり、日本では利根川流域がトップである。
本流から枝葉のように分岐しながらも、様々な知識や考えを集め範囲を広げる思考のことを「流域思考」と言う。

第4章「日本人の流域思考」
前章で述べた流域思考のもとに日本はどうなのかについての対談である。日本の流域思考は「西高東低」の傾向にあるというがスケールの大きな考えができるかどうかという所からみているようだ。

第5章「流域思考が世界を救う」
「流域思考」というと「思考術」と考えの人もいるかもしれないが、本書ではあくまで「地理学的思考」と言う所で捉えているため、ビジネスにおける思考力ではないということは釘を刺さなければならない。
さて、本章のタイトルもスケールの大きなものであるが、流域単位で、経済や環境にまつわる対策を行えば世界は救われるという。
流域の如く、鶴見川の話から昔の河川や森に至る話まで枝葉に分かれているところを考えると、考え方も「流域」と言える(良くも悪くも)。

第6章「自然とは「解」である」
自然には様々な生物が存在する。その自然の中で人は何を見つけて行くのだろうかという研究も行われており、木々の成長、人の進化といったものは論理づけられながら考察を行ってきた。しかし養老氏はそうではなく、自然には育っていった「解」があるからでこそ、ありのままの自然に触れるからでこそ見えてくるものがあると主張している。

環境を知るのは一筋縄ではいかないように思える。文献でなければ分からないものもあれば、フィールドワークによってはじめてわかるものもある。今日の「環境」の知る難しさと同時に楽しさ、大切さを知ることのできる一冊であった。