私訳 歎異抄

「歎異抄」は鎌倉時代後期に親鸞の弟子である唯円が書かれたものと言われているが、諸説ある(ただし、親鸞の弟子が書いたというのは確かである)。浄土真宗の祖である親鸞の教えを学び、それを忠実に従っていた唯円は恩師である親鸞の死に伴って、多くの異端者が出たことを嘆いた。親鸞が存命の時にも彼の実施を関東・波紋をした事件である「善鸞事件」というのが起こった。「歎異抄」はその事件以降のことについて恩師の親鸞より直接聞いた話を記している。親鸞の教えをじかに聞いたことを無解釈で書きとめることは非常に難しいことであるが、親鸞の教えを忠実に守っている唯円だからでこその作品である。

その作品を翻訳ならぬ「私訳」を行ったのが「青春の門」「大河の一滴」でおなじみの五木寛之氏である。「歎異抄」も本書をはじめ昨年は新書も出されており、かつ昨年には小説として「親鸞」も上梓している。親鸞に限らず仏教にまつわる研究も著しい(現に80年代に仏教史を学ぶため執筆業を窮牛したこともあった)。「歎異抄」を自分なりの解釈によるとどのようになるかということについて書いた一冊である。本来は「私訳」のあとに「原典」の順であるが、本来の作品はどうなのかから見たいため、逆から紹介している。

「原典」
親鸞の教えには人生において様々なことを教えてくれる…と言いたいところであるが、あくまで親鸞が愛弟子に言ったことを、弟子がまとめたものである。人生における教えばかりではなく「善鸞事件」の経緯やそれに関しての親鸞の感想、親鸞の教えを従わないもの(こと)についての「異義」をあげ、その理由について述べたものである。ある種の批判本という解釈というべきかもしれない。

「私訳」
ではこれを五木氏が解釈をしたらどのようになるのだろうか。「私訳」というだけあって、親鸞が心優しく見えるような気がした。原典では「善鸞事件」や異義を行っている人の批判をストレートに行っているのに対し、「こういうことをやってはいけない」というように、優しく諭しているイメージであった。
小説家が最も得意とする「ストーリー」を描くという意味合いから「歎異抄」を解釈したのではないかと考えられる。

「歎異抄」の中で親鸞は何を伝えたかったのか、これは文学的にも宗教学的にもまだ議論の余地がたくさんある、それと同時に著者が言うように「謎に満ちた存在」とも言える。著者が仏教の研究を行っていく中で、「歎異抄」の解釈がどのように変わっていくのだろうか、続編が見てみたいし、昨年出た「歎異抄」や親鸞についても見てみたい。