近代日本の陽明学

陽明学」は16世紀に王陽明が成立させた儒教における学説の一つであり、「心即理」「知行合一」などを根本に挙げられている。知ったこと、思ったことを即行動に移し、自らの「知」を動的に理解する思想を指し、日本でも幕末から昭和にかけて数多くの有名人が陽明学に信奉したことでも知られている。本書は日本における陽明学の歴史と概念を表しながら、中国大陸から生まれた陽明学と日本における陽明学の差異についても考察を行っている。

エピソードⅠ.「大塩中斎」
本章のタイトルにある「大塩中斎」であるが、誰なのかというと「大塩平八郎」である。ちなみに「中斎」は号である。天保の大飢饉が起こった際、大坂(現在の「大阪」)が幕府に対して起源を取るためにコメの値段を釣り上げたことに怒り、民衆とともに幕府に対して蜂起を行った(大塩平八郎の乱)。
結果は大塩軍が壊滅し、大塩本人も火薬を使用して自決を行ったのだが、現在における「反骨」の象徴とも言われている。
本章では天保の大飢饉のほかにも幕府では朱子学が根幹に挙げられていた。それへの反抗もあるとみている。

エピソードⅡ.「国体論の誕生」
ここでは三つの事柄について挙げている。「藤田三代」と「水戸黄門」、「吉田松陰」である。
まずは「藤田三代」であるが、これを語るためにはまず「後楽園」について説明しなくてはならない。「後楽園」とは言っても2か所あり、一つは東京都文京区にある「小石川後楽園」と岡山県岡山市にある「後楽園」があるが、本章は前者のことを言っている。前者には水戸学藤田派の学者である藤田東湖の殉難碑が存在するという。水戸学は日本古来の伝統を追求した学問であり、始祖として「水戸黄門」として知られる徳川光圀がいる。陽明学とは少し外れるが、吉田松陰や西郷隆盛らに多大な感化をもたらしたという事実があると考えると陽明学との接点も少なからずあるのかもしれない。

エピソードⅢ.「御一新のあと」
このころから陽明学は様々な形で変化を遂げる。大政奉還をした後の話が中心であるが、その前に河井継之助の話についても触れている。河井は越後長岡藩の家臣であったのだが、大政奉還後の戊辰戦争では武装中立を行い、旧幕府軍と新政府軍との調停を申し出たが決裂。北越戦争となり敗北を喫してしまい、会津へ敗走中に病に倒れ、亡くなった。
そのあと、明治・大正と時代が流れ、陽明学も普遍の教育の一つとして挙げられるようになった。その中で陽明学をキリスト教にした男として「内村鑑三」を挙げている。「代表的日本人」として有名な内村であるが、西欧の代表的宗教であるキリスト教と、東洋における儒教の学派の一つである陽明学とのコラボレーションを行うということだけでも画期的であった。

エピソードⅣ.「帝国を支えるもの」
明治時代は文明開化とともに西欧の文化も数多く取り入れられた時期と言っても過言ではない。哲学もカントなどが取り入れられており、本章でも「明治のカント漬け」と題した所がある。日本古来からある哲学や風土、中国大陸など東洋から渡ってきた陽明学などの学問、そして明治とともにやってきた西欧の文化と学問が日本の大地で様々な形で調合されてきた時代でもあった。

エピソードⅤ.「日本精神」
それらを学ぶ機会が増えるにつれ、日本の精神とは何かについて述べる「思想家」も数多く表れた。本章では高畠素之、安岡正篤、そして大川周明である。共通して言えるは昭和初期に外務大臣や陸軍大臣の経験のある人物、宇垣一成の家に訪れた人物たちである。大川は国家としての観念を主張したことにより、A級戦犯で起訴された唯一の民間人となり(脳梅毒により免訴となった)、安岡は「日本精神の研究」など様々な名著を送り出した。

エピソードⅥ.「闘う女、散る男」
昭和20年8月15日正午、日本は敗戦を迎えた。
日本精神を訴えるような教育がGHQによって廃止され、様々な形で日本は解体された。
しかし日本における陽明学の名残は残っていた。その代表格として挙げられるのが三島由紀夫である。三島は戦後における憲法、さらには自衛隊など、解体された日本を憂い、自衛隊の駐屯地で籠城し、演説を行ったのち割腹自決をした。俗に言う「三島由紀夫事件」である。今の右翼の本流の代表格として知られている事件であるが、「陽明学」の概念は歴史や政治のみならず、ビジネスの場でも語り継がれて現在に至る。

王陽明が誕生し、日本に伝来した後、様々な形で変化を遂げた。もはや本来の陽明学と言うよりも、日本独自でカスタマイズをした「日本陽明学」と言うような学問になりつつある。数多く存在する伝統と同じように進化しながら、陽明学の歴史は続いている。