松下幸之助 危機の決断 伝説の熱海会談

日本から世界にとどろかせる電機メーカーとして代表的な企業である松下電器産業(現:パナソニック)、そのそう業者は「経営の神様」と言われる松下幸之助であることは周知の事実である。松下幸之助の功績の一つとしてあるのが「熱海会談」である。本書はその熱海会談の顛末と、そこからそして2度目の世界恐慌をいかにして乗り越えるか、松下の歴史について熱海会談をベースにして書かれた一冊である。

第一章「伝説の熱海会談」
「熱海会談」が行われたのは1965年7月のことである。
ちょうどそのとき、東京オリンピックが終わり、それと同時にオリンピック景気が終演を告げ厳しい不況となった。大手電機メーカーは軒並み業績が伸び悩み、決算で赤字となった所がほとんどであった。松下もその例外に漏れず苦しんでいった。「経営の神様」の神通力が通じるのかといわれていたのだが代理店の松下本社と松下幸之助に対する不満が日に日に増大していった。そこで話の場を設けたのがその「熱海会談」である。
この会談は開始する日付と時間だけ設け、終了は設けなかった。代理店の思いの丈をぶちまけながらも、この現状を打破する術を模索したかったからと考える。代理店の不満や批判はすさまじいものであり、松下が干される様相を見せた。それがなんと2日も続き、3日目に突入した。
それでも苦情が続く中、松下幸之助はついにお詫びをした。喧嘩腰の空気から一変し会場は感涙に包まれた。そこから危機を脱し、大横綱とも言われる企業に成長をしていったという。当時すでに企業において横綱のポストにいた松下であるが、まわしを締め直し、大横綱へゆく道を歩み出した瞬間であった。

第二章「平成不況」
それから好景気やオイルショック、そしてバブル景気と続き、崩壊、「失われた10年」に突入した。この平成不況の中で最も割を喰らっていた、そして現在の不況下で喘いでいるのが町工場である。本章では東京都大田区にある町工場の現状を現地取材をもとに表わしている、言わばルポルタージュの所と言える。
日本の町工場は世界に轟かせることができるほど技術のレベルは高い。とりわけNASAで使う部品には町工場で作られたものがあるというのは有名な話である。

第三章「丁稚からナショナル誕生へ」
ここからは松下幸之助の生涯が綴られたところである。幼少の時に父の破産や経営の行き詰まりをきっかけに丁稚奉公となる。その時に商売のイロハに関して学び、電車に感動をして電気の道を志した。
その後電気会社に勤める傍ら、電球のソケットなど数多くの開発に取り組んだ。
後にパナソニックとなる「松下電気器具製作所」を創立した。

第四章「戦乱を駆け抜け高度成長期に」
会社を起こしたのは良かったものの、はじめから経営が軌道に乗っているわけではなかった。とりわけ危機に立たされたのは戦後間もない時、GHQから制限会社、さらには松下家が財閥指定され、幸之助自身も幹部とともに公職追放に遭った。それと同時に人間教育、倫理教育を重点に置いた「PHP研究所」を設立した。公職追放や制限会社の指定が解除されると社長職に戻り、東奔西走をしながらも、松下を大きくした。

第五章「昭和の終わり」
熱海会談が行われる前に、幸之助は65歳を機に社長を退任する決心をし、会長職に就き、後進の活躍を見守る立場となった。その矢先、第一章のことが起こり、経営、そして営業の第一線に戻らざるを得なくなった。本格的に引退をしたのはその15年後であった。そして、松下を大きくする傍ら、「日本の政治家は国民に尊敬をされていない」という危機感が募り、自ら政治家を育てようという思いから「松下政経塾」を設立した。現在では数多くの政治家を輩出し、その中でも国務大臣になっている人もいる。

「経営の神様」と言われる松下幸之助であるが、危機の脱し方という点で「熱海会談」というのがクローズアップされる。不況に転落した今だからでこそ、「熱海会談」から学ぶべきことがあるのではないかと私は思う。本書は出るべくして出た一冊であるが、残念ながら、熱海会談の部分をもう少し知りたかったという心残りがあった。3日間の懇談のあと、松下と代理店はどのような動きがあったのかがもっと知りたいからである。