福沢諭吉 背広のすすめ

日本で始めて「スーツ」という概念が生まれたのは幕末のころ、長きにわたる「鎖国」が黒船の来襲により終焉を告げたことからである。

日本では「スーツ」のことを「背広」という言葉に置き換えることができる。おそらく「背広」を着たサラリーマンが「父親の背中」のように広く見せるためと勝手に推測してしまう。
ではなぜ日本では「背広」と呼ばれるようになったのか、「背広」とは何かと問われると著者同様私も考え込んでしまう。本書は「背広」の言葉と概念について福沢諭吉とともに考察を行っている。なぜ福沢諭吉なのかは三章にて詳しく説明する。

一章「誰が「背広」を日本に伝えたのか」
では改めて「背広」とは何なのかについて明治時代に三省堂書店が刊行された百科事典から紐解いている。「サックコート」として説明されているところに「背広」と書かれていたのである。しかしそれよりさかのぼった明治3年にはじめて「せびろ」ということばが誕生した。

二章「なぜ「せびろ」は明治三年に登場したのか」
今のような「背広」ではなく、ひらがなで「せびろ」と表記されていた。初めてその言葉を世に送り出したのは古川正雄、福沢諭吉と苦楽をともにした盟友であった。

三章「諭吉はなぜ洋服屋を開いたのか」
福沢諭吉は学問だけではなく、「背広」を広めるために情熱を燃やしたことについて知っている人は少ない。現在の慶応義塾が誕生した後、その構内に「衣服仕立局」というのを創設したところから端を発している。
明治の初期は「ぼしん戦争」をはじめ幕府と新政府とのいざこざもあり、その片づけに追われ、とても近代教育をするような状況ではなかった。そこで「洋学や洋服を学ぶとしたら慶応義塾」と言われるほどであったと「福翁自伝」の中で記されている。

四章「誰が「せびろ」を日本語にしたのか」
洋服や学問を広める為に奔走した諭吉であるが、明治3年に発疹チフスで病臥した。

五章「「せびろ」なのか「セビロ」なのか「背広」なのか」
「せびろ」という言い方は明治3年に、「背広」という言葉は明治末期にできたことはすでに書いた。では本章のタイトルにある「セビロ」は誰が言い始めただろうか。具体的には記されていなかったが明治20年代に尾崎紅葉らがそのように表記したからと著者は推測している。

六章「誰がはじめて「背広」と漢字で書いたのか」
では「背広」という漢字はいつ頃から表記され始めたのだろうか。「せびろ」という言葉が誕生した3年後、つまり明治6年に「防服裁縫初心伝」の中ででてきたとある。
明治維新以前から漢字とひらがなと親しんできたせいか、「セビロ」というカタカナ表記のほうが遅かった。

七章「なぜ「背広」の語源が分かっていないのか」
背広の語源については今もわかっていない。諸説はあるものの、核心となっていないからである。諸説ある語源の中には、最初に書いたようなものから紳士の国であるイギリスの通り(サヴィル・ロー)からきたもの、コートの名前(シビル・コート)からきたというものがある。

八章「「セビロ」は外来語なのか日本語なのか」
もう一つ説があり、軍服に対して軍人が着る私服の中に「シヴィル・クローズ」からきているという。「セビロ」というカタカナ表記はここからきているのではないかと唱える知識人もいた。

九章「「背広」と「スーツ」はどこが違うのか」
私の中でも気になっていたところである。本書の中身を紹介するまでは「背広=スーツ」だと思っていた。実際に意味は同じであるが、なぜこの2つの言葉が誕生したのだろうかと考えると答えられる人はほとんどいないと思う。
背広の語源は不明であるが、スーツは英語の「suit(スート)」からきた「和製英語」であることは明確である。

十章「明治天皇は背広を着たのだろうか」
明治天皇の「御真影」には軍服姿であり、明らかに洋服を召されていることがよくわかる。文明開化とともに明治天皇をはじめ、近代の日本を構築した人々は西洋服を積極的に召されたと言われている。本書には書かれていなかったが、もっとも西洋服着用に熱心だったのは榎本武揚である。明治政府ではきっての「洋服派」であると知られていた。

十一章「明治の洋服屋列伝」
明治時代の洋服屋といっても今のように全国津々浦々あるわけではなかった。幕末から急激に洋服を着られる用になったとはいえ、洋服を作る技術やノウハウが乏しかったからである。その洋服店の草分けとなったのは「山崎高等洋服店」があり、本章ではそれについて紹介している。その洋服店の跡地は現在の三越銀座店である。

十二章「はじめて背広を着た日本人は誰なのか」
本章のタイトルの答えは正直なところ定かではない。とはいえ、いくつかある諸説の中から3つ、本章ではとりあげられている。一番古いもので1826年にドイツの医者であるシーボルトが日本にやってきた時、接待を行った人物がオランダ商館長から譲り受けられ、着用したという説がある。鎖国状態にあり、西洋諸国を驚異と感じていた幕府はキリスト教を始め西洋のモノを着たり持ったりする事を堅く禁じていた。そのため日本で初めて背広を着たときがかなり遅くなった。

十三章「羅紗と背広と夏目漱石」
時代は幕末となり背広が広がりを見せていったが、外国さんの衣類は鎖国状態にあった時でも密かに広がりを見せていた。本章のタイトルにある「羅紗(らさ)」もそのひとつである。ちなみに「羅紗」は毛織物と言われており、非常に高価で幕府御用達であった。ちなみに町人などの階級では着ることを禁じたほど貴重なものであった。
続いて夏目漱石である。漱石は大学で英文学を学び、高校で英語の教師を務めたほどである。その漱石は英文学を学ぶためロンドンに留学をし、その地でスーツを仕立てたという。国文学であまりにも有名になっている漱石だが、英文を専攻し、背広にもこだわりを持っていたのは意外のように思える。

十四章「日本ではじめての洋服屋」
明治維新になる前に横浜で初めて開業された洋服屋の話についてである。「背広」という言葉がでる前だったというのには驚きであった。

十五章「背広と知性」
西洋服、背広や軍服に親しみを持っていたところは薩摩藩であるとみる。というのは幕末頃からイギリスと戦争を仕掛け、その後交流を深めていったことにある。そしてなによりも西郷隆盛が積極的にそれらを着用したことにある。

背広をはじめ西洋服が日本に伝来し、着用が始まったのは江戸時代末期から、そして「背広」という言葉が使われ始めた明治3年から約150年もの間親しまれていた。西洋では17世紀に軍人の私服として誕生したのだが、それから100年経って「西欧に追いつき追い越せ」というスローガンのあった日本に伝来した。
今となって背広を始め洋服は当たり前の如く着るが歴史を振り返ってみるのも一つなのかもしれない。その思いから私は本書を手に取った。