マユツバ語大辞典

TVや新聞などのニュースでは様々な言葉が飛び交っている。「現代用語の基礎知識」を毎年制作している自由国民社では「流行語大賞」を発表しており、その中で新しい言葉が次々と生まれた。

その中で「マユツバ語」も次々と誕生しているが、それに気つかず一般社会に浸透してしまっている。本書では様々な「マユツバ語」について指摘している。

1.「マユツバ語とは何か」
そもそも「マユツバ」とは何か、という話から入っていく必要がある。簡単にいえば、人を騙すほどの怪しいことや偽りのこと、もののことをいう。漢字に直すと「眉唾」となり「眉に唾をつければ化かされない」という所からきている。

2.「「格差社会」のマユツバ度」
2005年前後から流行語にまでなった言葉というと「格差社会」であろう。とりわけ2008年頃には小林多喜二の名作「蟹工船」が社会現象になるほどの売れ行きであった。「蟹工船」の状況が、当時における「格差社会」の現状と重なったことが大きな要因であるが、戦前に限らず、高度経済成長期前後にも格差はあり、憲法25条に記載されている「生存権」を巡った裁判も起こっている。
ほかにも「国際化」にまつわるマユツバも指摘している。

3.「善玉コトバが悪玉に」
「談合」「公僕」「地球温暖化」とあるがそれ以上に印象に残ったのが「名誉」である。
本章では「名誉」について将棋のことについてふれている。升田幸三には「名誉名人」の打診があったのだがそれを拒否し、「実力制第四代名人」という称号を与えたというのはあまりにも有名な話である。
ただし一言付け加えなければいけないのが、将棋のタイトル戦では王座、囲碁ではすべてのタイトルが所定の獲得数に至ると「名誉」の資格を有することができる。本章では謙遜やマユツバについてふれているが、一称号としてあることは忘れてはならない。

4.「戦争が生んだマユツバ語」
終戦して今年で65年を迎える節目となる。戦争の中でも「玉砕」など、様々な言葉が生まれた。

5.「失言とマユツバ語の間」
「失言」に関するニュースを聞かない日が珍しい。しかしよくニュースを見てみると「本当に失言なのか?」と疑ってしまうようなニュースにも出会えば、2000年に東京都知事の石原慎太郎が「三国人」発言のように、勉強しなければこの言葉を知ることができないような言葉もある。

6.「あぶないカタカナ語」
ビジネスやコンピュータのみならず、様々な場で「カタカナ語」というのは氾濫している。元々英語からカタカナ語になったものもあれば、「和製英語」として日本で誕生したものもある。

7.「氾濫するマユツバ地名」
「東京」という地名があるのにあるのが違う場所というのもある。有名な所では「東京ディズニーランド」は千葉の舞浜にあるし、成田空港の本当の名前である「新東京国際空港」も千葉の成田にある。
ほかにも東京のみならず様々な場所に「銀座」があることや(たとえば品川区にある「戸越銀座」)、呼び名や縁起担ぎに関する地名について指摘している。地名というと読みにくいものもあり鹿児島にある「指宿」や北海道にもアイヌ語からきた地名がちらほらあることを思い出した。

8.「ことわざは怪しい」
ことわざから学ぶものもあり、「ことわざ辞典」と言うのを出しているのが日本くらいヴァリエーションも多く、日本人がいかに「ことわざ好き」かと言うのがよくわかる。しかし…というよりも「それゆえか」という言葉のほうが良いように思えるが誤用もあるというのを本章では指摘している。

9.「二十一世紀版・美辞麗句」
本章の冒頭に出てくる「不適切」は今となってはよく使われる言葉であるが、思い返してほしいのがこれは元アメリカ大統領であるビル・クリントンが愛人疑惑に関しての釈明会見で使われたことから

10.「たとえ話に気をつけろ」
話や文章に躍動感をつけるために「喩え話」が盛り込まれるときがある。文章法では比喩や暗喩、擬人法など様々な方法が使われる。しかしその喩えの使い方について著者は不信感を抱いているのだという。喩えの使い方が間違っているのだろうか、それとも時代背景によるものだろうかというのは本章からみてもなかなか読みとりにくい所がある。

11.「すり替えの狡さ」
前の「喩え話」「ことわざ」そしてもう一つが「すり替え」。
これは政治家や官僚ではよく使われるものである。さらにTVや新聞のコラムでも使われ、私たちの所にニュースが届くのである。「メディアを疑って読め」という言葉がある所以はそこにある。

12.「あいまいと苦渋の産物」
「近頃の若者は日本語がなってない」
よく聞く言葉であるが、ではそれを言っている人はちゃんとしているか、というと「そうだ」と答えるだろうが、それを言う世代も一昔前は最初の言葉と同じように言われていた。現在では「〜とか」と使うことへの評判が悪いと言われているが、著者の世代でも挨拶の時は「どうも」ですますということで、批判の対象にあったのだという。

日本語は絶えず進化をするのだが、木の成長の様に、進化の過程の中で私たちの眉をしかめるような進化の仕方もある。本書は進化の中の「余分な枝葉」のことを言っているのではないかと思う。