謝罪の研究―釈明の心理とはたらき

企業に限らず、政治の場でも「陳謝」や「謝罪」、「お詫び」と言った言葉をほぼ毎日目にする。謝罪の内容によって、信用を取り戻す所もあれば、逆に怒りを増幅してしまうこともある。謝罪会見の中でもTV局や新聞社の一部による横柄な態度、もしくは感情混じりの質問によって歪曲されることもあることを差し引いて見る必要はあるが。

本書は心理学における「謝罪」のあり方、釈明のあり方に至る所を考察した一冊である。

第1章「釈明の研究――謝罪とは何か」
「謝罪」という言葉をとある辞書で調べてみると、

「罪やあやまちをわびること。」goo辞書より)

とある。自分自身やそれに所属している所に過失があった場合のことを言う。その「謝罪」にしても、「ただ謝る」というだけか、今後の対策も含めて提示する謝罪か、それとも赦しを乞うようなものなのかと言うだけでも意味合いや表現の仕方が違ってくる。それだけではなく謝罪する人や団体へのイメージも変わるのが確かである。謝罪の仕方というと「その「記者会見」間違ってます!―「危機管理広報」の実際(日本経済新聞出版社)」という本があるのだが、謝罪会見で開き直りをして会見そのものが殺伐としたものになる事例がある。10年前に起った「雪印集団食中毒事件」がある。これは当時の社長の一言で世間の批判が一気に高まった例として有名であるが、最近で言うと宮崎県の「口蹄疫問題」で東国原知事が激怒した会見もあれば、野球賭博問題で武蔵川理事長が「撮り続けると会見やめるよ」となり、こちらも殺伐とした会見になったことで有名である。

第2章「釈明効果の研究――謝罪に対する被害者の反応」
謝罪の仕方によって相手からの非難されるか、むしろ好意的に受け入れられるかといった研究を本章ではしている。謝罪会見とはいっても、自らを正当化させるような会見もあれば、罵り合いや責任転嫁の応酬と言った会見もある。
本書を読んで気になったのが、日本と諸外国の謝罪風土の違いにある。4年前にシンドラー社製のエレベータで高校生が建物と天井の間に挟まれ死亡する事故があった。その後にスイスのシンドラーグループ本部の会見にコメンテーターが怒りを覚えたという。なぜかというとこの会見で語られた内容は乗客の過失か他社が行っている保守点検が悪いという、自ら正当化させるようなものであった(後に社長自ら謝罪した)。日本では「まず謝罪ありき」というところでいったん謝り、今後の対策を講じると言うところにある。一方国によっては日本と逆で検証から入り、自ら非のある場合は謝罪する、あるいは一貫して自らを正当化し続けるような所もある。

第3章「釈明選択の研究――謝罪する人の心理と行動」
謝罪をする人の心理と言うことで、これまでは謝罪の意味合いについてを述べてきたが、ここでは心理学的な観点から、謝罪の方法、要素を考察している。
謝罪をする心理の中に大きく分けて「戦略的要素」と「非戦略的要素」というのがある。
さらに細かく分けてみると、以下の通りになる。(p.112より)

○「戦略的要素」
・自己利益
・自立的アイデンティティ
・協調的アイデンティティ
・責任否定の成功期待
○「非戦略的要素」
・私的責任判断

ここでは個人的な謝罪について表しており、団体になってくると少し違ってくる。
謝罪をするとなると、私情が挟んでしまうが、これは「私的責任判断」という所に入ってくる。個人的なお詫びの場合は「私的責任判断」と「アイデンティティ」が混同してしまうこともあるように思える。

第4章「釈明指導の研究――日本における謝罪傾向の伝承」
日本人の謝罪傾向を見た上で、これからの釈明指導のあり方について論じている。

日本にとってはもう当たり前にある謝罪会見、それだけではなく、普段私たちの生活の中でも多かれ少なかれ「謝罪」と言うのはあるだろう。謝罪をする時にどのような心情で行っているのだろうか、さらには謝罪の種類などを見ることを本書では見ることができる。