命の値段が高すぎる!

「命の値段」とは何なのかというと、簡単にいうと「医療費」のことをいっている。医療費をつぎ込むことにより自分、もしくは他人の命を持続させるということから「命の値段」と形容している。

しかしその医療費もだんだん高くなっている。医療の高度化、さらに国から捻出される医療費が削減されることによって国民負担額が増額の一途を辿っている。
本書はそのような医療の現状について、なぜそうなったのか、そしてこれからの医療はどうなるのかについて考察を行った一冊である。

第1章「「医療の終わり」の始まり」
医療制度が大幅に改革されたのは2000年代に入ってから、ちょうど「IT革命」が言われた時である。それから様々な改革が行われる中、一昨年に「後期高齢者医療制度」が成立され、施行された。現在は民主党政権となり、その制度が廃止される動きとなっている。
しかし医療の財政状況、および環境は悪くなっていく。高齢者の比率が増えすぎたことにより医療機関への負担が大きく、就職難により大卒から看護学校に入学する人も増えている。

第2章「小泉医療改革が目指したもの」
現状でも同じであるが、日本の医療は少ない負担で高度の医療ができるという強みがある。
しかしその「強み」も財政が逼迫していくことにより限界が生じてきた。
第1章でも語っているが高齢者への医療費の増大により、現役世代への負担は強まっていく一方である。

第3章「医療費負担の世代間対立」
本章では「後期高齢者医療制度」に関して詳細に言及している。
高齢者の増大に歯止めをかけることができず、かつ国・国民双方での医療費が増大する一方だった。「後期高齢者医療制度」は財源や保険料など複合的に考えた結果出てきた法案であるが、法案の名前も含めてマスコミや野党はこぞって「差別」などを用いて批判し、かつその批判を煽動した。そのためか、後期高齢者医療制度そのものに関して論じられるマスコミは皆無に等しかった。
後期高齢者医療制度の他にも、日本が行っている「国民皆保険」についても言及している。

第4章「メタボリック狂想曲」
最近では啓発ポスターから病院に至るまで「メタボ」という言葉が氾濫しているように見える。「メタボ」とは略さずに言うと「メタボリック・シンドローム」と言われており、高血圧・高血糖・高脂血症の三症状のうち2つの症状に疑いがある場合に定義される呼称である。
基準としては血圧や血糖値、さらに腹囲が挙げられており、とりわけ「腹囲」のことについて取り上げられることがほとんどである。
前身の「蔵前トラック」にて本章で参考文献にしてある「メタボの罠」という本を取り上げたことがあるのだが、「メタボ」として扱われる腹囲の範囲が世界的な基準からみても奇異なるものであると論じたことがある。あれから3年経つがその基準について変わる気配がないと考えると、利権や基準について論じる状況や見込みが内容に思えてならない。
本章の最後に「ハンバーガー税」の導入について論じているのを見たとき、あることを思い出した。ハンバーガー店似たいしコーヒーが熱すぎることによって火傷してしまい裁判になったことが話題(マクドナルド・コーヒー事件)となって、その後ハンバーガーの食べ過ぎによって太りすぎたことによって訴訟を起こした事件である。言うまでもなく原告の敗訴となった(裁判長から「おまえの食べ過ぎだ」と言われる始末だった)。もしかしたらこの訴訟もハンバーガー税が導入されたら訴訟は起こらなかったのではないかと邪推してしまった。

第5章「「善意の医療」が消える!?」
本章ではメディアであまり取り上げられなかった「レセプト並み領収書」について言及している。「レセプト」とは患者が受けた診療によって氏名や性別などの個人情報や過去に診療を受けた医療機関など月単位でありながら、事細かに作成される。医療書の電子化を行うにあたり、医療費の算出について重要な要素となる。
しかし、このレセプトも大きな罠がいくつかある。一つは事細かに点数化されているのかと思いきや、病名の判断などに至るまで病院の裁量が重視されている。さらに「混合医療」を認めないという意思表示にもなると言及している。
「混合医療」とは簡単に言うと、国から保険料として支払われる項目は限られており、その範囲内の医療と、保険では認められていない医療が複合的に行われることである。歯のインプラントなどがその例として挙げられている。

第6章「健康監視社会の到来」
多くの会社では年の頻度はあるにせよ、健康診断というのがある。ちなみにあるニュースをみたのだが、全体的に健康であると診断された人は1割しかいないというのを見ると、いかに不健康なのか、それとも不健康として扱われてしまったのかというのが窺える。
たとえばメタボと診断されたときに生活改善の推奨、もしくは指導が入るとする。健康診断でもいっこうに改善されない場合は、それに関する督促が執拗にやってくるというものである。
他にも過去に病気を患って通院したことも履歴として残り、どこの病院のどの医師に診断されたのかというのが一目でわかるようになる。まるで国が推奨する医療機関の公式ストーカー行為にも見える。

第7章「保険は国や会社に頼るな!」
医療は国や会社によって保護されているかと思いきや、「監視」され、「強制」されているというのがよくわかる。では任意で国の保険に加入する制度、簡単に言うと「国民皆保険」をなくせというとそうではない。しかしある程度自分の裁量で治療方法や医療を選ぶ権利を与えなければ、自分にあった医療を求めることができない。もっと言うと人間はロボットではないことはわかっているが、ロボットのように同じような治療で万人を治療させるようなことはあまり効果がない、かえって逆効果を生み出すということである。

第8章「日本の医療に「希望」はあるのか」
では日本における医療の未来は真っ暗なのか、というと解決方法は様々である。しかし「完全な解決」はなり得ない。というのは理想の医療は国、もしくは国民それぞれ違うものであり、それが国民全員にとってかなう医療など存在しないからである。むしろ国が主導で行い、国民はなにもせずただついて行くだけというよりも、むしろ国民だけで医療がまかなえるという環境を私たちが作るべきではないかということにある。医療はインフラといえる、そのインフラを私たちが作り、支えていくことがこれからの医療で重要なことではないだろうか。

政府が掲げるマニフェストはいつしか「国民の生活」を機軸にしていることがほとんどになってしまった。私たちがやるべきことを国に任せて、国がそれができないと挙って批判の声を上げるようになってしまった。マスコミの煽動におどらされて、私たちの役割を忘れてしまい、このことが諸外国から「国民は三流」と言われてしまっている要因となっている。国に頼らず、自ら考え、動いていくことがひいては日本を変える大きな一歩となるのではと考える。