私も読書家の端くれであるが、私のまわりには「読書」に関して「二極化」が進んでいるように思えてならない。ほぼ毎日のように本を読んでいるか、もしくは全くといってもいいほど読んでいないかという違いしかない。
私事はここまでにしておいて、本書は著者自身の読書遍歴を紹介しつつ読書の効力について、さらに書籍界の現状についても触れている。
第一章「私の読書体験」
著者の読書体験について生い立ちとともに綴っている。生まれながら、というわけではないが、幼稚園のころに母親、もしくは保育士から絵本を読み聞かせられたことが読書のベースになることが多かったという。
これは私も同じことがいえた。幼稚園のころは読み聞かせられただけではなく、実家には絵本がたくさんあったため、自分で読んだりすることもあった。その中でお気に入りだったのは「さるかに合戦」だったかな。
それから小学生から会社員、そして社長になるまで(著者は資生堂の名誉会長まで歴任された)どの本と巡り会えたのかというのがわかる。「読書即ち人生なり」と言いたくなるような章である。
第二章「読書と教養」
「読書をすると教養が身に付く」と言われている。
これは強ち間違ってはいないのだが、全部が全部そうなる訳ではない。しかし読書をするとどのような本なのかもわかり、その中で自分がどう思っているのか、というのを考えることができる。
読書のあり方、たとえば読み方にしても読む媒体、もしくはアウトプットの方法など枝葉の部分での変化はあるが、「読書」そのものの根幹は変化していない。
第三章「仕事は読書によって磨かれる」
読書は仕事に直結することを言っているが、実際に実践をしなければ何者にもならない。そのことを主張している人は私のまわりには多い。読み手は人それぞれなので私はそれについてあれこれ言うことではない。
実際に私自身読書による実践は普段の生活の中に織り交ぜるという意識をもってやっている。あまり大きな変化をつけてばかりでは、逆にリズムについていけず、実践が破綻してしまいかねないためである。
それはさておき、先ほどの実践だけではなく、座右の銘など「心がけ」といった部分でも役に立つのも読書の醍醐味である。
第四章「私が影響を受けてきた本」
ここでは著者が影響を受けた本を紹介しているのだが、「ガリア戦記」や「方丈記」など粒揃いといえる中、もっとも気になったのは寺田寅彦の「電車の混雑について」である。本書が出版されたのは大正11年、今からちょうど90年も前の頃である。そのころから「満員電車」について考えていたとなると、「満員電車」に関する不満(?)は90年の時を経ても治っていない、むしろ満員電車を少しでも解消するということができていないということを痛感してしまう。
第五章「読書と日本人」
日本語、そして「本離れ」と言われている世の中について言及している。
日本語は英語など他国の言語と比べてもユニークであり、表現の幅も広く、繊細なところまで表現をすることができる。しかしその繊細さが「非論理的」と言われる所以の一つになってしまっているが。
もう一つ「本離れ」は「活字離れ」と同じように言われているが、どちらかというと出版売り上げの右肩下がりによるものが大きい。実際の読書による統計では、読書数は変わらないどころか増えている。しかし表現や語彙が落ちている理由はいったい何なのだろうか。一つは「本の表現の簡易化」、もう一つは「読書数の二極化」がある。
「本の表現の簡易化」は本による原因というよりもむしろ、簡単な本に走ってしまう私たちにある。というのは古典の難しい表現が忌避されてしまっている。
「読書数の二極化」は文字通り読書中毒になっているか、もしくは読書嫌いになるかのどちらかである。
第六章「出版・活字文化の大いなる課題」
本の価値観や「活字離れ」、さらには若者へのメッセージについて述べられている。
読書は表現もふくめていろいろな場面で「豊か」になる。またこれまでの人生の中での読書遍歴で人間が形成される。本書はそれを実証している。
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