若者言葉に耳をすませば

「若者言葉」を否定したり、批判をしている人が多い。そのことにより「日本語が衰退した」と嘆く人もいる。

しかし「若者言葉」は今に始まったことではない。現在でも「かわゆす」や「パねぇ」などが代表格にあげられるが、一昔前であれば「チョベリバ」、もっと前となると「ナウい」という言葉も出てくる。見てみると「若者言葉」は時代が流れるにつれて「死語」になるスピードは速い。流行語にもそれと同じようなものはあるのだが、廃れずにずっと残るケースもあるため一概には言えない。

いつの時代でも変化はあるのだが「若者言葉」はある。それを批判する方々にも若者言葉には「時代の変化」がある。そのことを自覚しているのだろうか。

少し話は外れるのだが、漢字の読み方で間違った使い方をしているがあたかも正しく使われる、いわゆる「俗用」で使われる言葉もある。例えば一人舞台となる意味では「独壇場」を使うのだが、元々は間違いで「独擅場」が正しい。というのは「壇」は土で作り上げられた舞台そのものを言い、一人舞台を掴むことを「擅」と呼ばれるからである。他にも「消耗」の読み方が間違っていたり(本来は「しょうこう」と読むが、「しょうもう」と読まれることが多い)と挙げてみるときりがない。

色々と見ていくと「正しい日本語」とは何なのか。その定義はあるようで実は無いのかもしれない。ましてや言葉は相手に伝えるため、もしくは感情を表現するためなどに使われるものであるならば、それはどの手段でも良い、と考えると日本語に限らず言葉は絶えることなく進化をする、という意見も一理あるのではないかと考える。