渋沢栄一――社会企業家の先駆者

「日本実業界の父」と言われた渋沢栄一。その活動範囲は会社経営のみならず、経済政策に関する提言まで積極的に行うまでに及んだ。
その中で「論語と算盤」「道徳経済合一説」など現在のビジネスにも多大な影響を及ぼし、現在もなお「渋沢栄一研究」が進んでいるなかで、渋沢栄一はどのような人物かについて本書にて紹介している。

第一章「農民の子から幕臣へ」
渋沢栄一は武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に生まれた。農村の出身であるが、農民の中でも身分の高い「豪農」であり、どちらかというと裕福な身分であった。
その身分からか幼少の頃から四書五経などの教養を育ませた。
「血洗島村」と聞くと、大変失礼であるがおどろおどろしいような感じがしてならない。この地名の由来は諸説あり、一つは利根川がよく大雨や台風により氾濫し、地面が荒れることから名付けられたのと、上杉氏を中心に数多くの合戦があり、将兵たちの血が流されたことから流されたのとがある。個人的には名前からして後者の方がしっくりとくる。

第二章「明治実業界のリーダー」
明治時代に入り、新政府の下で経済の基盤を構築した後、官界を離れて実業界に進出した。第一国立銀行(後の第一勧業銀行、みずほ銀行)を創設を皮切りに東京ガスや帝国ホテルなど多種多様なかいしゃを設立・経営を携わった。

第三章「渋沢栄一をめぐる人的ネットワーク」
渋沢栄一は実業界に進出してから、毎日のように様々な人と面会し、会合のための移動の連続していた。この文章を見ると現在の経営者とも変わらない。分刻みの日程の中で、当時は当然インターネットは存在せず、通信インフラといえば郵便・電話・電信などしかなかったがそれをフルに活用し、官民問わず様々な人と意見交換を行った。移動中でも同乗した人と談義を行うなど精力的であった。
それだけではなく、後継者の育成にも力を入れていた。

第四章「「民」のための政治をめざして」
「政治は誰のためにあるのだろうか」
ニュースではほぼ毎日のように政局に関するニュースが流れる。昨年か一昨年に行われた選挙の時にもたしか「国民の生活」などをうたったものが散見されたように思える。私たちに聞こえのいい言葉ばかりのマニフェストが乱立し、あたかも国民に媚びを売れば票は入るというようなことなのだろうか。
能書きはここまでにしておいて、経営者になる前は政治家として、新政府の経済の礎を築いたのは最初にも言った。それだけではなく経営者の立場でも政治に対して積極的に提言を行い、それを実行したこともあった。もっとも大きかったものとして日清戦争後の経済対策などを取り上げられている。
興味深かったのは渋沢は外国債の募集によって民間への資金投入には一貫して反対であったことがあげられる。言わば「公的資金投入」であるが、それを行ってしまうと日本は長期的に国際競争力が低下することにあるのだという。現在の国際競争力から考えるとまさにその通りのように思えてならない。

第五章「社会・公共事業を通じた国づくり」
渋沢の活躍は官民だけではなく教育にも「実践」を重きに置いたものとして力を入れた。実業界から引退後は慈善事業にも注力したという。これまで活躍した実業界、政界、あるいは日本そのものへの恩返しという意味合いが強い。

渋沢栄一の生涯は官民そのものに捧げた一生である一方で、多くの後継者を育て、実業界の礎を築いた。そのなかで西欧から学んだことや、日本古来からのものを併せ持ちながら近代日本を育て上げた功績は100年以上経った今でも学ぶ人々は後を絶たない。