2011年3月11日午後2時46分
宮城県沖でM9.0となる非常に強い地震があった。後にこの地震は「東北地方太平洋沖地震」「東日本大震災」に発展し、戦後最悪の地震被害を受けた。
震源に近い宮城県石巻市でもこの地震と津波により多くの人命を失い、ほとんどの建物が崩壊、もしくは海に流された。石巻市の情報を日々発信している「石巻日日新聞」もこの震災で多大な被害を被ったが、震災翌日から「壁新聞」をつくり、日々情報を発信し続けた。
本書は震災直後からの一週間伝え続けた石巻日日新聞の記録である。
第1章「壁新聞はこうして生まれた」
3月11日、石巻市は冬の寒さの真っ只中であった。その日の昼に地震が起こり、会社の中はパソコンやガラスなどが散乱していた。しかしその呆然もつかの間「大津波警報」が発令されるやいなや巨大な津波が押し寄せた。会社の中では「今何ができるのか」と考え、翌日、壁新聞が作られた。
第2章「手書きの壁新聞から6枚が教えてくれた「伝える使命」」
「今、私(たち)にできること」
ニュースや地域情報を伝える側としてその命題が突きつけられた時に生まれた壁新聞。それは震災翌日の3月12日から6日連続で、壁新聞をつくり、避難所やコンビニに張り出した。今ある「正確な」情報を伝えること、ネットでは手にはいることができない、現地にあるありったけの情報を残された人々は取捨選択をしながら、模造紙に一枚一枚書き出していった。
第3章「命と向き合いながら、奔走した記者6人」
その壁新聞をつくるために、石巻市、女川町、東松島市の取材に奔走した記者6人を一人ずつ紹介している。6人の記者はそれぞれ違ったところで地震に遭い、それから壁新聞を作るために、正確な情報を得るために、あちこち取材に回った。それだけではない。記者自らの家族の心配、取材した先々での心情を、写真とともに時系列に書かれており、改めて地震の恐ろしさ、そしてその地震の中心地にて「生きる姿」を写しているように思えてならなかった。
そしてその災厄の中で、正しい情報を「伝えたい」と純粋な心がこれでもか、というほど強烈に伝わったような気がする。
震災は多くの人々を飲み込む。人命や建物、インフラをも、である。
その災禍の中で石巻日日新聞は常に人々に発信し続けるインフラとして全うしていた。その姿は在りし日の「新聞」の在り方を見ているようであった。
「今、私(たち)にできること」
それをもっとも体現しているのかもしれない。
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