官僚制批判の論理と心理 - デモクラシーの友と敵

近頃のTVや新聞でも相変わらず「官僚批判」が後を絶たない。もっとも「官僚を叩けば日本は良くなる」といった幻想を信じているようにしか私には思えない。
しかしその「官僚制批判」を政治哲学という観点から紐解けるという。本書はそれを明かしている。

第Ⅰ章「リヴァイアサンとロマン主義」
「リヴァイアサン」と言えば「万人の万人に対する闘争」で有名なトマス・ホッブズの代表的な作品である。主に階級的な政治(絶対王政)を肯定しつつも、自然状態を紐解いている。官僚制の政治はそのような政治の中で醸成された。

第Ⅱ章「デモクラシーと官僚制」
やがてモンテスキューやルソーによって民主主義の概念ができつつなると、「官僚制」は弱体化する・・・かと思いきや、民主主義になったからでこそ「官僚制」が強まるケースも存在する、たとえば高度経済成長期の日本もその一つである。
その官僚制について、ホッブズやルソーらは政治論の傍論として論じられてきたが、その「官僚制」を本格的に論じ始めたのがトグウィルでありマックス・ウェーバーである。

第Ⅲ章「「正当性の危機」から新自由主義へ」
日本において「官僚バッシング」が起こり始めたのは1990年代、折しもバブルが崩壊し、「失われた10年」が到来した頃にあたる。それまでは経済が右肩上がりになっていくにつれ、官僚批判をしなくても日本は良くなるという考えが主であった。そのため主立った官僚批判は少なかった。しかし、バブル崩壊後は日本政治や経済に悲観的な見方を示したことから官僚批判が盛り上がったのかもしれない。

第Ⅳ章「「鉄の檻」以後のカリスマの問題」
「鉄の檻」とはマックス・ウェーバーが「支配の社会学」の中で閉鎖的な社会を揶揄して言われた言葉である。日本の「官僚制」の社会はその言葉に当てはまる。その強固な官僚制と言われる「鉄の檻」から脱した後の政治、あるいは政治家のことを論じている。

第Ⅴ章「読み直されるウェーバーの官僚制論」
ウェーバーの「官僚制」について論じたのは第Ⅳ章にて紹介した「支配の社会学」である。これは1922年に発表されたものであり、来年この本が発表されてちょうど80年を迎える。そのときだからでこそ、この「官僚制」について本格的に読み直そうという動きがある。

「官僚批判」は日本のみならず、世界のどこにでもある。しかし日本ではそれが20年もの間、その声を聞いたことがないほど様々なメディアで叫ばれている。しかし批判ばかりしていては何も変わらない。だからでこそ「官僚」はどのようにしてできたのか、原点を知る必要があるのではないのだろうか。