かつて小学校では「二宮尊徳(金次郎)像」を建てた所が存在した。しかし最近になって予算の関係から、もしくは現在の様相と馴染まない、本を読みながら歩くことが危険であることを理由に撤去をする所も多いという。
私が二宮尊徳のことを知ったのは小学4年生の時に、あるTV番組にて神奈川県小田原市のある小学校の話にて二宮尊徳を取り上げたときのことである(TV番組名は忘れましたがNHK教育で放送されていたのは覚えている)。そのときは尊徳の生い立ちと哲学の「さわり」だけ教わっただけであり、正直なところ二宮尊徳については名前くらいしか知らない。
昨今の日本ではまさに「国難」と呼ばれる時代と言える。そのような時代になぜ「二宮尊徳」が必要なのか、本書は尊徳の生い立ちとともに、日本内外での尊徳の印象について述べている。
第一章「尊徳の少年時代」
二宮尊徳が生まれたのは1787年、現在の小田原市に農家の子供として生まれた。そのことから小田原市の小学校では「尊徳先生」といわれる所以なのかもしれない。
しかし小さい頃に農地は洪水によって失い、幼い頃から奉公として薪を売り歩いた。「二宮金次郎像」もその奉公の時代に立派な百姓になるために勉学を励み続けた時の姿を移したものである。
しかし尊徳が勉学に励んだのは立派な百姓になるためだけではなく、お人好しの父親を反面教師として、父の轍を踏みたくないという重いからであるという。
第二章「成田山の開眼」
様々な勉学を励み、現在の栃木県の一帯の復興に尽力したが、武士の妨害により、いっこうに進まなかった。そこで成田山不動尊にて断食などの苦行に出たという。
そこから尊徳は有名な「一円の心」の悟りを開いた。
第三章「烏山に一人の餓死者もなし」
悟りを開いた尊徳は、桜屋にもどった。しかし、その頃には「天保の大飢饉」が起こり、とりわけ烏山藩(現在の栃木県那須郡)は未曾有の凶作に喘いだ。烏山藩の老中は尊徳に仕法の教えを請うたが、追い返される。しかし烏山のある武士の真摯な姿勢により「二宮仕法」を請うことができた。その仕法を忠実に実行したことにより、もっとも凶作が酷かった所でありながらも、一人の餓死者を出さなかった。
第四章「尊徳の実を継ぐ人たち」
前章のような尊徳の「二宮仕法」だけではなく、封建社会でありながらも「人間主義」や「合理主義」など様々な思想や実学、道徳が鈴木正三をはじめ、後藤新平、渋沢栄一などに大きな影響を与えた。
第五章「外国人から見た尊徳」
尊徳は日本でも多くの人物に影響を与えたが、海外ではどうか。アメリカでは「日本のリンカーン」と賞賛する人がいれば、イギリスではサッチャーの国家再建が「心田開発」の根本を参考にしている。
第六章「今、尊徳を受け継ぐ人たち」
尊徳の教えは現在でも受け継がれている。その事例として、現在日本の企業や団体で尊徳の教えを実践している方々を本章にて紹介している。
尊徳について知ったものの一つとして内村鑑三の「代表的日本人」が挙げられる。内村鑑三がもっとも代表的な日本人を5人取り上げているが、中でも二宮尊徳は古代ギリシャの哲学者であるソクラテスに肩を並べるほどの存在であるという。国難の時代にあるからでこそ、二宮尊徳の教えは必要である、それを痛感した一冊が本書と言える。
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