2011年3月11日 午後2時46分
宮城県沖を震源とした地震が起こった。その地震による津波は我々の想像を遙かに上回り、それにより約3万人以上の犠牲者を出した。
宮城県石巻市もその甚大な被害を受けた地域の一つである。「水の都」と呼ばれた石巻市はこの地震で美しい景観を失ってしまったが、そこで立ち上がる方々もいた。本書は石巻市で生まれ育った奇跡のボランティアを投影している。
第1章「「水の都」が消えた日」
石巻市は「水の都」と呼ばれるほど、海や川などの景観が美しい都市であった。とりわけ牡鹿半島を挟んでみる石巻湾の海の景観は「絶景」そのものである。
しかしその景観も3月11日の地震によって失われてしまった。石巻市の中心街はもはやにぎわっていた街の姿すら無く、光も灯も消えた。
第2章「石巻モデル誕生」
災害発生からしばらく経ち、ボランティアを行う人も出てきた。特にゴールデンウィークにかけては数多くの人が駆けつけた。石巻市では6万人を越えたという。
そのボランティアも、多数の志願者が出てくるとかえって「負担」となることさえある。
しかし石巻市は「石巻モデル」というボランティアのモデルを構築した。被害状況もさることながら、物資や食糧、さらには被災者の心など様々な課題が山積するなか「石巻モデル」は奇跡を起こした。
第3章「大学が拠点になった」
「石巻モデル」の拠点となったのは「石巻専修大学」である。専修大学の同列の大学であるが、地域に根ざした大学であり、避難所や最初にもいったボランティアの拠点にする事を快諾された。
かくして大学がボランティアの拠点となったが、そのボランティアならではの悩みも山積していた。しかしその悩みや課題を石巻モデル独自のスタイルが光った。
第4章「顔の見えるCSR元年」
企業も「CSR」を叫ばずにいられない時代である。しかしこのような時だからでこそ、この「CSR」そのものの意味が問われる。会社によっては全社を挙げて復興支援に尽力する企業や、「ボランティア休暇」を定めたもあれば、CSRというのは名ばかりで、復興支援は義援金だけにとどめる企業もある。本章では企業とボランティアの関係から「生きたCSR」の可能性について論じている。
第5章「行政とボランティアの連携」
「石巻モデル」で最も成功した要因には行政とボランティアとの連携であった。当初、及び阪神淡路大震災ではその連携がネックだったが、その経験をしていた人もおり、積極的にそれを解消したことは大きい要因となった。
第6章「災害ボランティアは企画力」
この「石巻モデル」を構築する要となるのが「企画力」であるという。過去の震災だけではなく、国際的なボランティアの経験から出たアイデアや、組織構成などが次々と展開された。
第7章「石巻モデルの教訓」
震災からまもなく1年を迎えるとはいえ、復興は「これから」という状態にある。奇跡と呼ばれた「石巻モデル」から復興のため、そして別の災害を迎えたときにどのような対応をしていけばよいのか、個人・企業・団体など様々な観点から指南をしている。
東日本大震災は数多くの人名や財産、そして景観など様々なものを奪い、失われていった。「得る」と「失う」という言葉が表裏一体であるように、私たちは「絆」を再認識させられた。そしてそのような時に私たちができることを問い、行動をし続けていく。
「今、私(たち)にできること」
その言葉は今も問い続けられている。
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