「午後6時」というタイトルが特徴的である。「午後6時」というと大体就業時間を迎え「アフター5」ならぬ「アフター6」となり、ビジネスマンによっては勉強や他の仕事の時間、さらには仲間内での飲み会などで消費するような時間に充てられる。しかし最近は「不況」と呼ばれるせいか、終業後も仕事で残ることもあれば、まっすぐ自宅にもどり、夕食後は家でゴロゴロする、という人が多いように思える。
本書は戦後日本の一日の喩えとして「午後6時」ととらえられており、宵闇にさしかかっている日本経済を揶揄してこのタイトルにしているという。その経済の現状とそこから立て直すための糸口について追っている。
1章「経済が低迷すると、国民の希望を担って独裁者が現れる」
本章のタイトルの一例として1929年に起こった「世界恐慌」の後のイタリアやドイツの政治状態が今の日本にも起こるのではないか、と危惧している。確かにこの状態の中で小沢一郎や橋下徹といった政治家がメディアで重点的に取り上げられている。
2章「経済が国際化し、銀行の数は減った」
経済はバブルとともに「国際化」の傾向になり、崩壊後の「失われた10年」の中で銀行が相次いで倒産した。その大きな要因として、「護送船団方式」の崩壊にあるという。その後「金融ビッグバン」と呼ばれる銀行の大合併が重なり国際的にも競争力を持たせる銀行に仕上げたのだが、現実は競争力を持っているのか、疑問を持ってしまう。
3章「日本的経営の価値は、人材育成の巧みさにあった」
戦後日本は高度経済成長などにより、経済は急速に伸ばしていった。その大きな要因として「日本的経営」によるものが大きいという。しかしバブル崩壊後はその日本的経営が批判・否定され、アメリカからきた「成果主義」が取り上げられるようになったが、蟻地獄の如く悪化の一途をたどっていった。日本における経営の光明も見えていないという。
本章では「日本的経営」の価値とは何か、どのような利点があるのかを再評価している。
4章「豊かになり、みんながバラバラになった」
戦後、国民が豊かになったことにより、大量生産が行われるようになった。それと同時に日本人の購買指向も多様化・高級化していった。そのことにより日本人そのものがバラバラになった、という論調も出てきている。
本章では雇用体型や購買指向の変化に伴う国民性について論じている。
後書きに本書のねらいは私たちのような世代の「空想の不足」と「集団行動の欠如」、それを補完、もしくは解消するために作られた一冊だという。しかし自分自身の世代は政治に関して興味はないのか、というと、ないわけではない。しかし与党や野党など既成政党に希望が見えない。極端な話で「絶望」しかない、という印象が強い。絶望ではなく、私たちの世代で変える「希望」も持てる。本書はそのための一冊なのかもしれない。「絶望」と呼ばれる状況でも、小さくても「希望」はある。
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