「公共哲学」とは何なのか。調べてみると、
「「公共性」をキーコンセプトに、哲学・思想史・政治学・法学・経済学・歴史学・科学技術論などのタコツボ化された個々の学問を共通の土俵に乗せ、相互の知見を討議のこと」(山脇直司著『公共哲学とは何か(ちくま新書)』より一部改変)
だという。いわゆる公正な社会とするために、メディアなどの「公共」にまつわる機関などの問題を考える学問・哲学のことを指している。
昨年3月11日に起こった「東日本大震災」、そこから起こった「福島第一原発事故」などが「公共哲学」に対して様々な問いを投げかけることとなった。
本書はその「問い」とは何か、そしてその問いに対して「公共哲学」にまつわる様々な「学説」を紹介しながら「問い」への答えを提示している。
第1章「公共哲学の「人間 – 社会」観と倫理観」
正規の四字熟語に「滅私奉公」という言葉がある。
自分自身の人格を廃し、国や公の為に尽くす行動や考え方そのものを表している。
そこから派生した「造語」の四字熟語として、本章では「滅公奉私」・・公に対しての尽くすところはほとんど(それどころか全く)無く、自分自身(とその感情や思考)に対してとことん尽くす考え方
「活私開公」・・・自分自身を生かしながらも公共の活動の場を開かれたものにしていく
「滅私開公」・・・自分自身の人格を廃して、公共の活動の場を開かれたものにしていく
という造語が飛び交う。その造語こそが今の日本人に必要なものが詰まっているという。
第2章「メディアと宗教の公共的役割」
メディアこそ民間的、もしくは国営・公営でありながら「公共機関」として扱われる。
しかし本来の「メディア」の意味そのものの疑問点も露呈したのが東日本大震災であり、福島第一原発事故であろう。
本章ではその「メディア」そのものの意味と20世紀に起こった「メディア論争」について、さらに宗教と「公共」の関連性について論じている。
第3章「新しい「公共的な諸学」の構想」
「公共哲学」と「科学」「人文学」「歴史学」などの学問に対する現在の関連性とこれからの関連性について論じている。その中で核問題や関東大震災、昭和強硬なども取り上げられている。
第4章「これからの正義と人権の話をしようーサンデル・ブームを超えて」
昨年あたりに「これから正義の話をしよう」という本がベストセラーとなり「正義」や「白熱教室」という言葉が乱舞するようになった。
実のところ私はこの「正義」や「白熱教室」に関連する本や物事は無視し続けてきた。というのはそもそも私は「正義」という言葉が大嫌いだからである。
「正義」という言葉を振りかざす人ほどエゴイズムを浮き彫りにしており、かつそのエゴイズムを世間にたいして同化させようとしているからである。
私的感情はここまでにしておいて、本章では公共哲学から語る「正義」と「人権」はいったいどのようなものがあるのか。そしてサンデル・ブームから「正義」はどのように変化していったのかを論じてる。
「公共哲学」と現在の状況とを読み解きながら一つの見解を著者なりに出した一冊であるが、そもそも「公共哲学」への難しさも感じてしまった。しかしその「公共哲学」が論じられたものの中から、昔からあるもの、今になって浮き彫りとなったものなどの「問題提起」が色々出てきた。本書は「答えを出す」のではなく、むしろ「それを読んでから考える」糧となる一冊であり、かつ今の「公共哲学」とは何か、そしてそこから何を為すべきかを考えさせられるような一冊であった。
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