光に向かって~3.11で感じた神道のこころ

2011年3月11日の東日本大震災は多くの人々と家屋を飲み込んだ。そして日常を壊し、「異常」と呼ばれる事態に見回れた。その災厄の中で私たちの奥底に残っていた「連帯」や日本人独特の「美徳」が発揮し、それが海外メディアにとって「奇跡」のようにも見えるほどだったという。

その震災の中で様々な角度から復興への支援の動きを見せている。3月に「利他主義と宗教」という本で、仏教の観点から復興への動きを紹介したが、本書は日本古来からある宗教「神道」の観点、それも東北の神社の宮司や神職に就いている方々の経験をもとに「神道」の角度からできることを見いだしている。

第1章「月山神社・今泉天満宮」
この震災で壊滅的な被害を受けた地域の一つである宮城県陸前高田市。その災厄の中で「奇跡の一本松」が残り、話題ともなった。その陸前高田市と隣にある気仙沼市に近いところにある「月山神社」では津波被害から難を逃れた人々の避難所となった。
本章ではその避難所となったときのエピソードを綴っているが、中でも目を引いたのが宮司夫人の震災後に初めて上京したときの体験談である。
「心の被災地」「被災地よりも「被災地」」
その言葉が私の胸を鋭く突き刺さる感がしてならなかった。

第2章「上山八幡宮」
宮城県本吉郡南三陸町もまた津波被害により人口の1割にも及ぶ1000人が死亡、行方不明に見舞われた地域である。「上山八幡宮」もまた避難所の役割を果たしたが、宮司の教え子たちの支援なくしては役割を果たせなかったと言う。「教え子」とは宮司はかつて高校教師をつとめており、新人教師立った時代に持った生徒たち数人である。10年経とうとも、50年経とうともその縁は変わらず生き続け思わぬところで発揮したと言える。

第3章「鹿島御児神社」
宮城県石巻市も甚大な被害を受けたところの一つであり、それについては「6枚の壁新聞 石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録」に詳しく綴っているほどである。
その石巻でも様々なところからの支援を受けてきたのだが、その中で思想や主義主張を振りまく人もいたのだという。復興への息吹を見せる中で様々な祭りやイベントを主催し、モノ・心双方で復興を盛り立てていった。

第4章「伊去波夜和氣命(いこはやわきみこと)神社」
震災によるガレキは最近では受け入れる地域も出てきている一方で放射能の観点から受け入れを拒否したり妨害したりする人や団体も出ている。
そのガレキにまみれたところの中で人々は自然の驚異におびえながらも「神道」にある「自然との共生」を模索し続けていった。私たち人間がちっぽけに思えるほど大きな「自然」の中で、「感謝」と「畏敬」を持ちながら生き続けること、それを日本人古来ある生き方であることを教えてくれる。

第5章「金華山黄金山神社」
約50年にもわたって宮司をとり、今では「名誉宮司」として石巻と神社を見守る女性宮司だが、石巻の中でも離島に位置した場所にある神社は震災により鳥居は崩壊し、復興の足を進めていく矢先、台風被害にもあった。1300年にもわたる歴史を持つ神社であるが、その歴史でも体験したことのないほどの被害を受け、島を離れざるを得なかった。

第6章「相馬中村神社」
福島県相馬市は震災の被害を受けただけではなく、福島第一原発にほど近いところに位置しており、放射能により「警戒区域」に指定され、避難せざるを得なくなった。しかし相馬中村神社が昔から伝統ある祭事である「相馬野馬追」は、規模は小さけれど開催することができた。明治時代に起こった大飢饉でも開催できた、それが大きなモチベーションとなり開催にこぎつけたという。

第7章「八重垣神社」
「形あるものはいつかその姿を失う」
それはいつ何時なのかはわからない。できてすぐの時もあれば、何十年、何百年、何千年と時を経て失うものもある。震災によって神社が流されたことにより、宮司はその言葉をまざまざと見せつけられた。

第8章「旅の終わりに 若一王子宮」
最後は著者のつとめる神社である。
著者はライターをつとめる傍ら、神職を勤めている。なぜ神職になろうとした理由は何なのだろうか、そしてなぜ東北の神社を訪れようとしたのか。本章ではそれを綴っている。

本書は神社とその体験談を紹介しているばかりではない。天皇陛下や歴代天皇の東北、そして震災にまつわる和歌も紹介されており、震災へのお痛みと東北への郷愁が表れている。「みちのくの都」と呼ばれる「東北」は首都圏に生きる私たちにとっても決して欠かせない場所であり、かつなくてはならない場所である。その中で東北の為にできること、私たちはそのことを問われている。