天に響く歌―歌姫・本田美奈子.の人生

本田美奈子.が亡くなってまもなく7年経つ。私自身本田美奈子.の存在を知ったのは亡くなった直後、「たけしの誰でもピカソ」という番組であった。デビューの頃からアイドルとしてばく進し、そこからミュージカル女優に、そしてクラシック・クロスオーバーの歌手として様々な「歌」の可能性に挑戦し続けてきた女性であり、かつ「プロ」とは何かを考えさせられたもう一人の人物である。

38年間の人生を「歌」の為に捧げ、そして「歌姫」となった女性・本田美奈子.の群像を描いている。

第1章「アイドル誕生」

「殺意のバカンス」「1986年のマリリン」などヒット曲を生み出しながらも自由奔放なアイドルとして活躍した。当時は松田聖子や中森明菜などアイドルが大量に誕生した時期である。アイドルとして活躍する一方で、松田や中森といった華々しく賞をとったわけではなく、さらに自分自身「アイドル」に疑問視するほど思い悩んだ。

第2章「舞台で生きる」

アイドルとして悩みだしたとき、そこにあったのは「ミュージカル」、アイドル真っ只中の時は見向きもしなかった。しかし次第に「アイドル」としての活躍も少なくなった。本田美奈子.はそれを「チャンス」と感じ、オーディションを受け、見事主人公である「キム役」に選ばれた。それからはアイドルの仕事をいっさい断り、「ミス・サイゴン」の稽古一本に絞り込んだ。そして初演は大成功を収めたが、数ヶ月後公演中、舞台の台車に右足をひいてしまい16針を縫うほどの大けがをした。その状態でも「ミス・サイゴン」への情熱を忘れず第一幕を演じきった。代役がやってくるまで第二幕もやると右指の骨を折り、靴の中が血の海の状態でも一歩を退かなかった。
最初に「プロ意識を考えさせられた」のはこのときである。このような状態であれば、大多数の人は気を失うような惨状である。にもかかわらず舞台への情熱を捨てないこと、そして舞台への想い、それは次章にもあるような言葉がそうさせている。本当の「プロ」とは身を賭すような状況になろうとも、ゆずれないものがある、たとえそのような状況のあろうとも。
やがて「レ・ミゼラブル」や「クラウディア」などの舞台を踏み、「クラシック・クロスオーバー」の世界に飛び込むなど、新たなチャレンジを続けていった。

第3章「生きるために生きる」

しかし、新たなチャレンジを続けていく彼女の中で密かに「白血病」という名の病魔に襲われた。2004年の話である。その病魔にもめげず、彼女は歌い続けた。一度は退院し、また精力的に活動を続けようとした矢先、またも「白血病」が再発し、容態は急変、やがて彼女は天に召された。あたかも名曲としてしられる「つばさ」をはためかせ・・・。

第4章「太陽になりたい」

彼女は「太陽」が好きで「太陽になりたい」と言ったのだという。彼女の奏でる歌、「Amazing Grace」や「寿ぴたー」「新世界」「つばさ」「新世界」「アヴェ・マリア」・・・といくら挙げてもきりがないが、その歌一つ一つを取っても、「生きる」ことへの明るい思いが込められている。感動と勇気と希望、それぞれの感情を起こさせるような歌。そう彼女は「太陽」として、私たちを照らし続けているのである。

彼女が亡くなってから7年経つが、彼女の歌は色褪せない。むしろ歌の輝きは増し続けながら、今日でも愛されている。今までも、そしてこれからも・・・。