オリンピックはなぜ、世界最大のイベントに成長したのか

先週からロンドンオリンピックが開幕した。昨日ようやく金メダル第一号が出てきはじめ、サッカーや体操、アーチェリーの分野でも活躍を見せた。

話は変わり、近代におけるオリンピックは1896年、ギリシャのアテネで開催されてから約120年にも及ぶ歴史がある。

そのオリンピックは「スポーツの祭典」として扱われる一方で政治利用の象徴として扱われることがある。昨今ではシリアなどの停戦協定での「五輪外交」と呼ばれるものも展開し、逆にミュンヘンやモスクワのように政権や国力誇示に利用したりと様々である。
その「オリンピック」は時代とともに「世界最大のイベント」として扱われるようになったのだが、本書はその理由について歴代オリンピックとともに考察を行っている。

第1章「再建の第一歩」
オリンピックを統括している組織としてIOC(International Olympic Committee:国際オリンピック委員会)がある。その会長は現在ジャック・ロゲであるが、その前はフアン・アントニオ・サマランチが1980年より21年ものあいだその会長をつとめた。
その1980年はモスクワオリンピックの年であったが、当時冷戦のまっただ中であり、政治利用の象徴として色濃く残っていた。そのことによるボイコットも多発し、オリンピックそのものにも暗い影を落とした。

第2章「サソリの戦いー米国放送局の入札を巡って」
オリンピックというと、競技によって放送されるテレビ局が異なる。日本ではそうなっているが、アメリカでは放映権獲得のために「入札制度」があったのだという。
その入札制度を巡っての交渉が1984年、ロサンゼルスオリンピックの前に起こった。

第3章「先制攻撃―長期契約と放映権料の急騰」
オリンピックほど世界的に注目される祭典はない。それだけに「放映権」を巡る争いは絶えず、その金額も億・兆といったところにまで急騰してしまう。その争いはロサンゼルスからソウルバルセロナアトランタシドニーと歴史を辿っていくほど激化の一途を辿った。

第4章「新たなスポンサー・プログラムの構築」
サマランチが会長として就任する前から国際的な「スポーツの祭典」として認知された一方で、オリンピックそのもののビジネスは混乱を辿っていた。スポンサー・プログラムそのものが陳腐なものとなってしまい、成り立たなくなっていたからである。しかもそのスポンサー・プログラムをいったん変えようにも160カ国もの参加国を説得する必要があったためである。
そのような過酷な状況のなかで新たなスポンサー・プログラムを構築していった。

第5章「ブランドを越えてーオリンピックの意義」
オリンピックに出られたことだけでもそれが「ブランド」として構築される。
しかしその「オリンピック」は政治利用の象徴として扱われた一方で1994年に行われたリレハンメルオリンピックでは、停戦協約としての「オリンピック」が取り上げられた。

第6章「便乗商法の一掃」
アトランタオリンピックではオリンピックを「便乗商法」として公式スポンサーを暗に攻撃をする広告があった。その一掃を巡っての交渉(というよりも諍い)を綴っている。

第7章「完璧な大会運営」
2002年、ソルトレークシティオリンピックのことを綴っている。アトランタの失敗を反省材料としたのが、大きな成功へと導いた。
第8章「IT企業の台頭」
技術の進化とともにオリンピックの近代化もその進化を採用した。その象徴として競技結果、判定のツールとしてITを取り入れられた。

第9章「オリンピック最大の危機―贈収賄スキャンダル」
第7章でソルトレークシティオリンピックは大成功だった、とあるがその裏ではオリンピックを揺るがすスキャンダルが起こった。五輪承知を巡る贈収賄事件である。当初はソルトレークシティのみの報道だったが、瞬く間に世界中に広がった。長期戦の様相を見せようとし、サマランチ会長も辞任に追い込まれそうになったのだが、辞任にならず、代償も最小限に済んだ。

第10章「オリンピックの帰郷―アテネ大会の感動」
第1回のオリンピックが108年ぶりにアテネに戻ってきたのが2004年の時である。「体操男子日本代表」をはじめ、多くの日本人がメダルを獲得し、大いに沸いた年である。その3年前に9.11事件があり、かつ会場の準備が進んでいないという危機に見回れたが何とか間に合った。

第11章「これからのオリンピック―教訓と今後の課題」
ソルトレークシティオリンピックの行われる1年前にIOCの会長はサマランチからジャック・ロゲになった。サマランチが残した功績と課題、それを現在行われているロンドンオリンピックではどのように進めており、中には解決していっているのか。その展開も見物と言える。

4年に1度の祭典の代表格、さらに「スポーツの祭典」を象徴づけるオリンピック、それは政治やビジネスなどの観点からでも感化できないものであり、その中にある複雑な問題が存在することを浮き彫りにしただけではなく、オリンピックのこれまでとこれからを投影した一冊といえる。