聖書男(バイブルマン)~現代NYで「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

昨年、「電車男」「電波男」「青春男」に続いて現れた「解剖男」。その
そして2012年、また新たな「男」が誕生した。
―その名も「聖書男」
キリスト教の聖典である「聖書(旧約・新約双方とも)」を様々な形で「実践」をした結果を表した一冊である。

第一月「九月」
1年にわたって聖書そのものを実践していくにあたり、「聖書」やガイドなどの準備に追われた。すったもんだの末、実践を始めたのは本章にもあるとおり九月からである。
聖書を忠実に実践しようとするあまり、

「聖書からはずれたことをしていないのか」
「計画は間違いないのか」

という不安に駆られ、その中で計画の見直しを迫られたこともあった。

第二月「十月」
一ヶ月経ちようやく聖書を忠実に実践することに慣れてきた。そのなかで「なぜキリスト教ができたのか」「聖書解釈の歴史はどのような道を辿ったのか」という疑問がふつふつと沸いてきた。原点を見るためにイスラエルに旅行を計画したり、歴史書から思索をしたりした。

第三月「十一月」
聖書を実践していくことによって、その聖書に反することを行おうとする人を許せなくなった。その許せない怒りがふつふつとこみ上げて、今では珍しい「石打ち」を行うようになった。
さらに新約聖書にある「隣人愛」、さらに「十戒」にある「盗むべからず」の実践もこの月で行っている。

第四月「十二月」
旧約聖書の「創世記」には、神は世界をつくるにあたり1日だけ「安息日」としたくだりがある。本章では「安息日」として睡眠や休息についての解釈の実践の他、性欲との闘いや一夫多妻についての解釈の考察を綴っている

第五月「一月」
この中でもっとも目を引いたのが「虫を食べる」ところにある。こう見てみるとゲテモノ食いをチャレンジしているのか、と思いきや「レビ記」にある食事制限の決まりとしてあるのだという(聖書なので理由は記されていない)。その消去法のなかで「虫」が食べられるから実践したのだという。
ちなみに食べたのはイナゴ。日本でも佃煮として食べられていることから、ちょっとほっとしたのは私だけであろう。

第六月「二月」
聖書を実践しながらではあるものの、ここである疑問がわいてきた。
「そもそも聖書は誰が書いたのだろうか」
と。旧約聖書の話であるが、wikipediaで調べながら自分の考えを思いめぐらし続けたという。

第七月「三月」
聖書を実践しながら、「十月」で計画していた「聖地巡礼」としてイスラエルへ旅行をしたことを綴っている。

第八月「四月」
聖書の掟を守ることを実践していくうちに「信仰心」や「掟を守ることの喜び」に変化を生じてきた。実践しながらも、それらにまつわる心境の変化を本章で綴っている。

第九月「五月」
これまでは「旧約聖書」の実践に取り組むことが中心だったが、この月からは「新約聖書」にシフトしていった。その中で「聖書研究会」にも参加をし、聖書解釈についての「学」も広げ始めた。

第一〇月「六月」
聖書の実践をする傍ら、今度は政治思想としての「極右のキリスト教」を知り、キリスト教の存在と解釈について考えるようになった。

第一一月「七月」
宗教的にタブーとしている「人工妊娠中絶」について聖書の立場としてどうなるのかが中心だった。倫理・宗教として「タブー」としているが、「宗教」と「聖書」を切り離して「聖書」の立場として考えたのだという。

第一二月「八月(と九月前半)」
実践をしたことにより、何を得た(もしくは失った)のかを統括し、長らく伸ばしていた髭を剃った話が中心である。
ちなみになぜ髭を生やし続けたのかというと、準備の段階から「モーセ」を意識してのことであった。

見るからにナンセンスなように見えるかもしれないが、世界で一番読まれている本が「聖書」であるからでこそ、人生において大切なことも書かれており、実践をしてみると意外なことが書かれていることに気づく。ナンセンスであるように見えて、聖職者でもわからない、聖書の本質について、実践を通して突いている。

―「聖書男」は侮れない。むしろ「電車男」や「解剖男」を(色々な意味で)凌駕する存在と言っても過言ではない。

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