1945年8月9日 午前11時2分
3日前の広島に続いて、アメリカの戦闘機「ボックスカー」が長崎に原爆「ファットマン」が投下された。約15万人もの人々が原爆により命を落とし、長崎の街は壊滅的なダメージを受けた。
本書はその中から「(浦上)天主堂」とあらましについて日米の歴史・戦後の関係とともに考察を行っている。
第一章「昔、そこに天主堂の廃墟があった」
長崎にも原爆は投下され、甚大な被害を受けたが、広島にある「原爆ドーム」のように、原爆投下の象徴の面影はない。代わりに象徴として残っているのは、ちょうど「グラウンド・ゼロ」の所にあるところに「平和公園」「長崎の鐘」「平和祈念像」「平和の泉」が存在する。その近くには「天主堂」が存在しており。その「天主堂」の廃墟は原爆の象徴として残すことはなかった。
第二章「弾圧を耐え抜いた浦上の丘」
そもそも「天主堂」とは何かというと、簡単に言えばカトリックの教会のことを指しており、観光名所として知られている。建てられた土地にはかつて「隠れキリシタン」の巣窟として江戸時代に「異教禁制」により何度も摘発されたことで知られている。この天主堂を建てられたのも「浦上四番崩れ」という弾圧を振り切りつくられた。
第三章「原爆投下―浦上への道」
そもそもなぜ長崎に原爆が投下されたのか、というとある「偶発」によるものであった。本来は当時軍需工業都市として盛んであった小倉をターゲットにしていたが、その前の爆撃による火災から出た煙でターゲットが見えなくなり、やむなく投下中止となった。
そしてもう一つの目標としてあった長崎に投下したということにある。
もしも先に「爆撃」が無く、軍事工場に火災が起こっていなければ、長崎ではなく、小倉に惨劇が起こっていた。しかし、原爆を小倉に投下することを計画していたのなら、なぜ「小倉に爆撃」をしたのか、残念ながら本章では読みとれなかった。
第四章「浦上の聖者と米国の影」
原爆が落とされ、天主堂が廃墟になっても、そのカトリックの心は滅びなかった。むしろ「浦上の聖者」によってその心を呼び起こした。
そしてその聖者は「長崎の鐘」という本でこの惨劇を語り継がせようとした。しかしそこのGHQの影により立ち消えとなってしまった。
第五章「仕組まれた連携」
戦後天主堂の再建活動とそしてその廃墟の保存活動が同時並行の形で始まった。本章では当時の長崎市長の奔走録を記している。
第六章「二十世紀の十字架」
その奔走の中でアメリカに渡る機会があったのだが、そのことにより廃墟保存に対する心変わりが生まれた。その保存に対して消極的になり、そして次章にわたる撤去へとつながっていった。
第七章「傷跡は消し去れ」
傷跡を消し去った背景は前章・前々章にもあるのだが、それだけではない。天主堂の司教も戦前から建てられた土地は第二章にて述べられたような事情から別の場所に建てることを拒んだ。
第八章「アメリカ」
その第六章にある「心変わり」が起こった理由、それはアメリカの史料の中に隠れているのかを調査している。
第九章「USIA」
アメリカに渡ったものの史料は見つからなかった。今度は「USIA(United States Information Agency:アメリカ情報庁)」からの史料を探しに奔走した。
第十章「天主堂廃墟を取り払いしものは」
広島と長崎の差、原爆に対するスタンス、そしてアメリカの思惑、原爆投下で壊滅的な被害を受けた2つの都市の隔たり、本章ではその複雑な「差異」について分析をしている。
原爆が投下されてちょうど67年、原爆投下、そして戦争による悲劇を語り継がなければならない。もう語り継げる人は少なくなっているのだから。
その一方で長崎の原爆についてなぜ天主堂を保存しなかったのか、その真実を知る必要がある。その背景にはアメリカと日本の不思議な関係が横たわっている、本書を通すと、そう見えているのかもしれない。
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