―あれから44年
私は当然生まれていなかった。
激動の時代と呼ばれる中でそれを知らない私たちはどのように映るのだろうか。1968年を見て、あることを思い出した。
「44年目の輪廻」
大規模デモ然り、政府の無策と増税然り、そしてサッカー然り、そして学府の無策しかり・・・。
4年前に還暦を迎えた世代を中心に「団塊の世代」と呼ばれるが、別名「全共闘世代」や「革命世代」など呼ばれ、そしてそれが日本経済を動かす中心的な役割を担うこととなった。
今週一週間は上にある小熊英二の「1968」の本をもとに1968年を見るとともに、44年経った「今」を見出し、そしてこれからの私たちに対する光明を見つける。
第1日目は1968年前夜として、戦後から23年間の出来事を中心に当時の大学生たちが革命に走ったきっかけ、そしてその前兆について迫ってみる。
<焼け跡から生まれた生命>
1945年8月15日正午、昭和天皇の「御聖断」により、日本は敗戦となった。その敗戦に伴いGHQの占領下に置かれ、その中で天皇を象徴とする日本国憲法がつくられ、施行された。その時代に生まれた世代は戦後の荒廃の中で育ち、そして高度経済成長に差し掛かったときに日本の状況を鑑みることができ始めた。
話は変わるが1950年代にはマガジン・サンデーといった週刊少年誌、フレンドやマーガレットの少女誌が続々と創刊、さらには月光仮面といった作品がTV放映され、それの影響もこの「1968」にあったという指摘もある。
<「もはや戦後ではない」>
この言葉は1956年の「経済白書」にて出てきた言葉である。当時は鳩山一郎が首相だった時の時代である。これから「高度経済成長」の引き金となったと言われているが、それは間違いであり、戦後復興が終わり、国際連合に加盟したことから言われた言葉である。
その後1960年、時の首相である池田勇人が「所得倍増計画」を打ち出した。そのことにより日本は「高度経済成長」が始まるわけである。戦後の貧困から脱し、経済大国への道を開いたが、その「代償」が後の1968年につながる「燻り」となった。
その「代償」は労働環境と労働組合の存在によるものである。
<アメリカへの依存と六十年安保>
その「所得倍増計画」を打ち出す前に、当時の首相だった岸伸介が「日米安全保障条約」の改定を行った。
その安保条約はアメリカ軍の駐留延長の他にも、日米共同戦線が明文化され、戦争の危険が増すことにより日本社会党などの野党の反発は激しく、国会の審議も紛糾することとなった。それだけではなく岸本人も戦前・戦中の東条内閣で重要なポストにいたことから国会どころか、国民の中でも反対運動を起こし、高まっていった。それが「ブント」や「全学連」と言った団体を中心に過激さを増していった。俗にいう「六十年安保(闘争)」の始まりだった。
国会の採決も社会党議員の座り込み排除や与党自民党内の危険を振り切った形のいわば「強行採決」と言った強引な手法で衆議院を通過させ、闘争は激化の一途をたどったが、翌年1960の6月に参議院の議決が行われることなく自然成立となった。これが引き金となり、岸内閣は退陣した。これら一連の運動も後に起こる「1968年」の引き金の一つとなった。
この「安保闘争」であるが「1968年」の後の1970年にも起こった。俗に言う「七十年安保」と言われているがこちらについては6日目に説明することとする。
<教育に対する憤懣>
「学生の学力が低下している」
昨今でも同じようなことを聞く限り、今に始まったことではない。むしろそれに導いたのは学生だけではなく、教師とその周りも同罪であった。教師側からしてみれば当時の学生に対するコミュニケーションがそれほど多くなく、むしろやらない・できないことが多かった。学生も学生で教師に対する吊し上げが起こし、教師と学生の対立が深まっていった。
それが後の「学生紛争」の大きな引き金となったのだが、教育の変化も大きな要因として挙げられる。
そしてもう一つは「受験戦争」の激しさから脱した空虚である。これについては5日目の「高校紛争」にも関連づけられる箇所が多いためそこで書くこととする。
<そして政治に対する憤懣>
そして頼りにしようとしたのが当時の日本社会党であり、日本共産党だった。しかし「既存左翼」というところだったが、あまりにも穏健すぎる、もっと言うと学生に対する声を聞いてくれないことから新しい左翼、「新左翼」へと身を投じることとなった。
そしてその衝動が1968年に爆発した。
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