シリーズ「1968年を知らない人の『1968』」~第四日「大学闘争② 日大・東大、そして本書に載っていなかった大学闘争」

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昨日に引き続いて「学生闘争」について詳しく述べるが、その「学生闘争」の中でも最も有名な「日大闘争」と「東大闘争」を中心に綴っていく。
その後には本書では記載されていない大学紛争をいくつか取り上げることとする。

日大闘争

今でこそ日本最大のマンモス大学として知られており、学生全体で2012年現在68,675人(学部のみ5月1日現在)もいたのだが、1955年は約3万人だった。ところが大学紛争が起こる1968年にはその3倍にあたる8万5千人まで急増させた。

名実共にマンモス大学に発展させたが、設備・学習環境・福利厚生などが追いついておらず、授業も「マスプロ方式」と呼ばれる大規模講義が乱発し、それらに不満を持つ学生が出てきた。しかもこの大学生の人数倍増は当時の会頭が単独で決めたものであり、かつそれによる授業料値上げも単独で決めていた。

「独裁者」「日大の帝王」と呼ばれるほどのワンマン経営だったが、学生闘争を力ずくで抑制したことにより、東大に次いで大規模な学生闘争に発展させてしまった。抑制した背景には一昨日に取り上げた「六十年安保」に日大生が活動していたことから、一切の政治運動を禁止させた。

この政治運動の対象は学生のみならず教職員にも該当しており、全学連はおろか教職員組合を作ったり、加入すること自体も禁止され、その情報が会頭の耳に入った時点で即退学・即解雇をするほどだった。

その憤懣は募りに募り、1968年4月、大学会頭に向けての質問状を提出、さらに5月使途不明金に関する集会やデモにまで発展した。当時の日大は集会を行うような施設はごく僅かしかなく、あったとしても数百人入るのがやっとだった。その集会も規模が大きくなるにつれ、日本大学の周辺にまで規模を広げていった。

そんな中大学の理事会と学生側の話し合いの場が持たれようとしていた。6月に行われる予定だったが、理事会側の一方的な中止により学生側の怒りは爆発。「学生闘争史上最強」とも言われるバリケードを敷、学生闘争側は文理校舎を籠城した。その情報があってかどうかは不明だが、抗議でもは学生のみならず、教職員や父母会にまで広がりを見せた。さらにその使途不明金が国税庁の調査にて明るみとなったが、会頭は認めるどころか正当化するような発言を繰り返した。

その発言が引き金となったか、大学会頭もふくめた「理事者総退陣」の声がいっそう増した。ついに理事会側は屈し9月に交渉の場が持たれることとなり、理事会の総退陣などを約束させた。しかしそれも反故され、さらに激化。大学周辺の施設・住民にまで被害が及んだため周囲の指示が急速に低下。1970年頃に自然消滅するまでに至った。

余談であるが、テレビプロデューサー・演出家にしてコメンテーターとして活躍しているテリー伊藤氏が斜視になった原因となったという。

東大闘争

学生闘争がニュースで取り上げる際に最も引き合いに出されたのが「東大闘争」である。その要因は後で書くのだが、「東大安田講堂事件」が連日のようにテレビで取り上げたことによる。

東大闘争は他の学生闘争と異なる。一つの特長として他の学生闘争は法学部や経済学部の「文系」の学生が中心だったのに対し、東大は「医学部」が中心だった。紛争の背景がその要因としてあげられており、医学部卒業後の身分保障への不満がこの引き金となった。

身分保障についてはあまり取り上げられなかったため、ここで詳しく述べていくこととする。元々東大など医学部のある大学では「インターン制度」として医術を行う研修が存在した。しかしその研修制度は卒業後医師として役立てられるものとはかけ離れたものであり、教授も学生も不満を持っていた。それを廃止する代わりに「登録医」制度が取り入れられたが、期間や謝礼金と言ったものが変わっただけで、具体的な内容はほとんど変わっていなかった。闘争はその改善内容に対する不満にあった。

その不満により1968年1月に無期限のストライキに突入。6月には東大安講堂を占拠しバリケードが張られた。大学総長の指示により、機動隊がバリケードを撤去し、占拠状態は解かれた。

この東大闘争が一躍有名になったのはその後、多くの「セクト」がこの機動隊導入に反発し、紛争に参加することとなった。紛争が激化する中、学生側が「七項目の要求(不当処分撤回や捜査協力禁止など、民青は独自に四項目の要求を公表)」を公表し、大学側に申し入れたが、一項目を除いて受け入れることを表明したが、全部受け入れることを絶対条件としていた大学側が反発。紛争は長期化する要因となった。

やがて秋に入ると「東大解体」を旗本に、ストや紛争が泥沼化、当時文学部部長だった林健太郎が学生側に8日間も監禁され、強制的に団交を行う羽目になった。しかしその監禁の身でありながらも団交には決して学生側の意見に屈すことは無かった。

監禁から解放されると学生側は劣勢になりかけ「全共闘」と「民青」の対立が起こり、いわゆる「内ゲバ」状態に陥った。その対立により全学的にバリケードを張ることを断念。しかし「全共闘」側は安田講堂でバリケードを張って籠城をし続けた。

これについて大学側が業を煮やし、1969年1月に大学総長が警視庁に機動隊を要請した。労働した全共闘と機動隊との衝突は後にTVで放送されるほど「大学紛争」を象徴させた「東大安田講堂事件」にまで発展した。この事件でついに安田講堂のバリケードが解体され「全共闘」は敗北した。しかしこの紛争はこれをきっかけに全国に広がっていった。

<学生闘争とは何だったのか>

大学紛争はいったい何だったのだろうかというと、一つに「教育環境の変化」が挙げられる。その中でも苛烈を極めた「受験戦争」とそこから抜け出した後の「空虚」、そして大学進学率の急速な上昇により、教育環境が悪くなり、かつ授業料値上げが起こったこと。その度合いが強くなったことにより不満が爆発し、半ば自然に増大していった。「高度経済成長」と絡んでいたのか、それとも「プラハの春」や「文化大革命」など世界的な「革命」と同じものなのだろうか、それは次の日以降に検証してみる。

(5日目に続く)