シリーズ「1968年を知らない人の『1968』」~第五日「高校闘争と新宿事件」

(4日目に戻る)

「学生闘争」は「大学」ばかりにスポットを当てているが、大学へ進む前段階に当たる「高校」でも同様の「闘争」が行われていた。しかしニュースではあまり報じられておらず、本書と出会うまでは私でさえも知らなかった。
この5日目では「高校闘争」と「新宿事件」についてを述べる。

<高校闘争>

大学が授業料値上げや待遇改善が大きな理由に挙げられ、それが各「セクト」に分かれ、そして「全共闘」として合体し、大規模なものと化した。とりわけ昨日取り上げた「東大安田講堂事件」では今日の「大学紛争」の代表格としてTVで取り上げられることが多い。

ではこの「大学闘争」の陰で繰り広げられていた高校闘争とはいったいどのような闘争なのか。そしてそれを起こしたてる「きっかけ」とはいったいどこにあるのだろうか。

まずはそのきっかけについて記載する必要がある。
発生した時期は1969年秋、このときには大学紛争が全国に波及していた時期であり、東大・日大の紛争が鎮静化していった時のことである。

高校生はその顛末についてTVを通じてみることとなり、それに感化したもの、受験戦争の苛烈さに不満を示すもの、あるいは「非行」や校則に不満を覚えるもの、と人それぞれであるが、複数の要因が重なり「闘争」へと発展した。

もっともこの1969年では「東大安田講堂事件」により大学入試が中止された。当時高校2年生の人びとは受験生であることの空虚さを覚え、闘争にかき立てたことも要因として挙げられる。

この「高校闘争」もセクトの的に止まり、高校生をセクトに取り入れ、規模は大学ほどではないが、全国的に広がっていった。各マルや民青などの組織では「高校班」と呼ばれる下位組織もつくられた。

しかし「高校闘争」と「大学闘争」の決定的な違いは、一つに大学は政治主張も含まれた中で闘争が行われたが、高校では学校に対する不満ばかりで政治主張は見られなかった。

<新宿事件>

第一次羽田事件の後、そう大学闘争が行われていた裏で「セクト」の内ゲバが行われた。そもそも2日目に紹介した、「中核派」「革マル派」などのセクトの源流は「全学連」であり、その全学連が街頭で内ゲバを起こした。

この羽田事件の後に日大・東大闘争があり、いったんその内ゲバは中断され合体し、大学側との闘争に明け暮れた。

しかし1968年10月の「国際反戦デー」でそれが再燃した。それぞれのセクトが防衛庁(現:防衛省)や国会、新宿などで集会を行った。その中で新宿は「中核派」「ML派(共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派)」とが同じ場所で集会を行う羽目になった。

このデモや集会が内ゲバに発展し「新宿(騒乱)事件」にまでなった。政治的主張として「ベトナム戦争の加害責任」や「米軍タンク車の日本輸送阻止」といったものだった。しかしそのデモや集会がやがて新宿駅を包囲し、線路まで占拠、それにより機動隊が駆けつけ騒然となった。しかも学生だけではなく、無職の一般人やサラリーマンにまでこの騒乱は膨れ上がり、約10万人にも及んだという(翌年も同じ新宿で闘争が起こった)。

ただでさえ大学紛争により「全共闘」の支持が失われたのだが、これにより、さらに信頼を失う、その失うことも知らずさらなる暴走をはかる人びともいた。

そしてそれが、七十年代に日本を揺るがす大事件になろうとは、当時はまだ誰も思わなかった。

(6日目に続く)