サツマイモと日本人

「秋深し馬肥ゆる秋」
食欲の秋と言われており、街路樹は紅葉に彩られ、そして落ち葉となって落ちてゆく。その落ち葉を使ってたき火して、そのたき火でサツマイモを焼いて「焼き芋」にして食す、という季節である。
しかしその光景もほとんどみられなくなった。むしろ神奈川に住み始めた今では「全く」とも言える。最近の「焼き芋」というとあらかじめスーパーやコンビニで焼かれたものを買うということもよく見かけるようになった。
本書の話に戻す。日本人とサツマイモは、切っても切れない関係にあるのだがその歴史について考察を行っている。

第1章「戦場のサツマイモ」
第二次世界大戦、とりわけ大東亜戦争の時代には食料不足が深刻化し、満足に食べられない家庭が多かった。とりわけ米は貴重なものであったのだという。
その代わりとなったのがサツマイモであった。

第2章「銃後では」
食料の困窮は戦後も続いた。米不足もますます深刻になり、「餓死説」にまで巷に流れるほどにまでなった。その食糧難の中でサツマイモが大いに役立ち、日比谷公園でサツマイモ畑を作ったほどであったという。

第3章「サツマイモの来た道」
サツマイモそのものが伝来したのは1597年、中国大陸からである(当時は「明」王朝)。
そこから本州に渡来したのはそこから15年後の1612年、薩摩藩(現:鹿児島県)からであった。

第4章「神になった日本人」
江戸時代には様々な「飢饉」が起こり、死者も出た。しかしその「飢饉」の中で「サツマイモ」の役割が大きく担ったのもある。そのサツマイモを作り、飢饉から脱した人物を「甘藷地蔵」、もしくはサツマイモの「神」としてまつられたという。

第5章「カライモのセン」
本章のタイトルである「カライモもセン」は対馬で作られた保存食であり、サツマイモを細かく砕いて、アクを抜き、発酵させ、天日干ししたものである。対馬にも飢饉が起こったものの、この保存食により一人の犠牲者もでなかったという。

第6章「出・天草」
天草地方もサツマイモの産地として名高く、「イモとイワシの島」と呼ばれたことがあった。その天草から水俣に移った人々の「サツマイモ」に関する事情と戦後四大公害病の代表格であった「水俣病」の関連性について綴っている。

第7章「「サツマイモ」VS「ジャガイモ」」
「イモ」というとみなさんは何を連想するのだろうか。
本書とこの書評を読んでいる人の多くは「サツマイモ」と答えてしまうのだが、その観念をはずして一度答えてみると「東」と「西」で大きく変わっていく。生産の作付面積でも「東」と「西」で大きく異なっている。

第8章「労研饅頭」
「労研饅頭(ろうけんまんとう)」は愛媛県松山市を中心に作られた、労働者の生活・食生活改善のために作られた饅頭である。食料が豊かになった時代でもこの松山名物の一つとして残っているのだが、それが誕生し、広がった原因、そして松山に残った原因を本章にて考察している。

第9章「こんな出稼ぎもあった」
高度経済成長期には地方を中心に「焼き芋」の出稼ぎが冬場限定であったという。これについては最初にも書いたように、時代とともに廃れていった。

第10章「町おこし、まちづくり」
サツマイモを使った町おこしも行われており、本章ではその中から埼玉や兵庫、京都をケースとして紹介されている。

サツマイモは米とともに日本人として欠かせない食料である。とりわけ米不足や飢饉の時には役立っており、「いざ」というときの食料として日本人に親しまれ、食品、もしくはおやつとして今日でも食べられている。本書はそのことを教えてくれる。