幸福論―“共生”の不可能と不可避について

シリーズ「「宮台真司」の思考を解剖せよ」の第3弾は幸福論である。昨日までは就活や入門といったものが中心であり、「社会学」において素人であっても取っつきやすい作品を選んできたが、ここからは少し取っつきにくくなる。社会における「幸福」とはいったい何なのか、それは個人的な価値観それぞれであるが、そもそも「幸福」は誰しも手に入れられるのか、いかにして「幸福」を感じられるのか、本書では3人の社会学者が「鼎談」という形で論じている。

第一章「パターナリズムこそ幸福の大前提?」
「パターナリズム」は一言で言うと「温情主義」「家父長主義」であり、

「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉すること」wikipediaより)

とある。
親子をはじめとした「他者」とのコミュニケーションによって成り立つことが多い。
話は変わるが、「幸福」を得るための塾体験や「缶状プログラム」、さらには第1弾でも紹介した「適応力」、「男女」など多岐にわたって「幸福」を得るためにはなにが必要かを論じている。

第二章「いかに幸せと思わせるかー幸福の社会工学」
「幸福な社会」を「設計」するためにどうしたらよいのかについての議論である。その誰に対しても「幸福な社会」をつくるためには様々な難点がある。その難点について本章では「ディズニーランド問題」や「三択クイズ問題」などユニークな用語が目立つ。

「ディズニーランド問題」・・・様々な世界を楽しむ一方で、物流や汚水処理など、「裏」と呼ばれる部分が見えなくなること。

「三択クイズ問題」・・・三択を選べる自由を「三択しか選べない不自由」を多い隠される事象。「二項対立」に似たようなものがあるように思える。

第三章「エリートが「幸福な社会」を作るのか?」
その「幸福な社会」を作るとなると、国家を動かす必要がある。その国家は官僚など「エリート」を動かす必要がある。
本章では「エリート」が作られる仕組みから、そのエリートが「安全保障」、及び「教育」の観点からどのように帰る必要があるのか、現状とともに提示している。

第四章「教育を通して「疑似階級社会」を作る?」
昨今の教育では、憲法上で担保している「平等」を基本としている。しかしその「平等」が拡大解釈され、運動会のかけっこでは皆で手を繋いでゴールするなど「競争」そのものが忌避されるような風潮さえ起こってしまっている。
その「平等」を脱し、「疑似的」に「階級社会」をつくること、そしてその根底として「機能」を教えることの重要性について議論を行っている。

第五章「<社会設計>の不可能と不可避」
では複雑な社会設計は可能か、という論題に移る。その社会設計を変えるためには「教育」が根幹となり、そこで、「感情的」な「安全」を持ち、かつ「地域」と連携して、社会的に「適応」する力をつけることなどを挙げている。

本書は個人的な「幸福」ではなく、社会的に「幸福」を築かせるにはどうしたらよいのかを見いだしている。本書もそうであるが、第1・2弾でもでてきた言葉がいくつかある。「適応力」「感染」「教育」である。「適応力」は自分と社会に対して順応できる力、感染は「スゴい人」など人を媒介として、人格・性格的に影響を受けること、そしてそれを得る機会として「教育」があるという。
3冊しかみていないのだが、それが一貫しているように思えてならない。