生きざま~私と相撲、激闘四十年のすべて

ポプラ社 様より献本御礼。
私が小さい頃の角界は「若貴フィーバー」と呼ばれる中で第六十五代横綱 貴乃花光司は絶対的な強さと人気を有した。相撲としてスター街道を進みながらも、度重なる怪我やスキャンダルに苛まれた。しかしそれにもめげず優勝街道を突き進み、そして引退。その後骨肉の争い、親方への再起など波瀾万丈に満ちていた。

「若貴フィーバー」の時代、同期と呼ばれた力士の中には、現在親方として角界に残った方もいれば、プロレスラーとして、あるいはタレント、経営者になったものもいた。ちなみに同期は貴乃花だけではなく曙や兄である若乃花など横綱・大関を数多く輩出しており、俗に「花の六三組」と呼ばれた。

話を戻す。本書のタイトルにある「生きざま」、誰にも真似できず、かつ貴乃花親方自身の人生を振り返るとまさにその通りの言葉と言える。ではどのような人生だったのか見てみよう。

第一章「父の引退、そして相撲を始める」
角界に詳しい人はご存じだが、貴乃花・若乃花の父親は大関・貴ノ花(貴ノ花利彰)であり、当時輪島や北の湖といった横綱勢に引けを取らないほどの強さと甘いマスクで「角界のプリンス」と呼ばれた。
子供の時の貴乃花親方時代の父の存在、そして家族団欒の中でのエピソード、わんぱく相撲で横綱になったとき、そして入門してからの思いを綴っている。
父があの「貴ノ花」の事もあり、兄とともに「七光り」としてマスコミの呪縛への苦しみは、相撲人生の中で大きな枷となった。

第二章「相撲に生涯を捧げる決意」
父である貴ノ花(当時の藤島部屋(12代目))に入門し、父と決別した貴乃花親方は兄弟子や師匠による厳しく、かつ過酷な稽古に明け暮れた。相変わらずメディアに晒される事はあったのだが、それがどうでも良いくらい稽古に明け暮れた。
そして様々な「史上最年少」記録を打ち立てていったのだが、それすら意識せず常に上へ上へと目指していった。

第三章「不撓不屈―雑草のように生きる」
「不撓不屈」の言葉は当時「貴花田」から「貴ノ花」に襲名し、大関に昇進したときの口上で言った四字熟語である。
幕内から関脇、そして大関に昇進を遂げてきたのだが、決して平坦とは言えなかった。昇進していくうちにメディアの過熱ぶりがエスカレートし、そのストレスが相撲にも表れた。優勝はできず、同期であり綱取りを果たした曙とは正反対の状態となった。
「七光り」としてデビューとした貴ノ花、その一方で、実力で綱取りを果たした曙。スターとしてではなく、むしろ「雑草」として倒れても倒れても這い上がるような状態だった。
大関に昇進してから「横綱」に昇進するまでに何度も幕内優勝はしたが、綱取りはなかなかできなかった。全勝できていないことが横審の挙げた理由だった。

第四章「不惜身命―横綱という栄光の光と影」
それでも貴ノ花はあきらめなかった。
四股名を「貴ノ花」から「貴乃花」に変え、二場所連続優勝をもぎ取り、ついに横綱昇進となった。本章のタイトルの「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」はその横綱昇進口上で言った言葉である。
横綱に昇進してからも優勝街道を突き進んでいった。しかしその一方で新たに迎えた整体師による「洗脳騒動」の疑惑報道が横綱人生に暗い影を落とした。さらに蓄積された疲労と怪我との戦い、それが貴乃花をさらに苦しめさせた。
それを乗り越え、築き上げた優勝回数は22回。今も語られる「平成の大横綱」の代名詞の一つとなっている。

第五章「親方となる、そして父との別離」
2003年に引退し、親方となった。そして父との別れであったが、ここで遺産相続騒動における骨肉の争いもあった。
しかしそのような逆境でも親方として生きていく。

第六章「相撲への恩返し」
今、角界は向かい風の中に晒されているといっても過言ではない。日本相撲協会の理事として、そして一師匠として、そして「貴乃花」そのものとして自分の相撲道はどうあるのか、どう進むのか、本章ではそれを示している。

第六章にある「相撲への恩返し」は向かい風の中にある相撲の中で、かつて自分自身がその風にさらされたときを重ねているように思えてならない。自分の弟子の優勝もあり、そして相撲の広告塔として活躍したり、「七光り」から「雑草」となり、そこから這いあがることができた相撲への感謝と恩返しは今日もまた続く。