日本人が知らない世界のすし

「寿司」は日本の食文化の代表格の一つとして挙げられる。

「寿司」は海外でも広く認知されているのだが、海外で生まれた「寿司」も存在する。そのネタには「アポガド」や「フルーツ」「チョコレート」など日本における「寿司」から見たら「邪道」と返されてしまうのだが、外国ではそれらも「寿司」、もとい「Sushi」として定着している。

本書はその外国の「Sushi事情」を追っている。

第一章「もはや「邪道」ではない世界の寿司」
元々江戸時代から発祥した寿司は強度料理として親しまれていた。それが日本中で共通した寿司が親しまれ始めたのは戦後になってからである。さらにいうと寿司がアメリカなど諸外国でも認知されるようになってきたのも、戦後になってからのことである。GHQの介入もその要因として挙げられる。
その諸外国で認知されるようになってから「カリフォルニアロール」と呼ばれる外国産の寿司が生まれた。

第二章「なぜ、寿司が「クール」なのか」
「クール・ジャパン」と言われて久しいが、日本の「ポップ・カルチャー」と並ぶように寿司もまた「クール」と呼ばれる文化の一つとして挙げられる。

第三章「女性職人がもて囃される理由」
日本における寿司づくりは「女人禁制」のイメージがあるのだが、外国では女性の寿司職人もおり、その店では人気を呼んでいるのだという。もっとも著者が経営する「寿司職人」を養成する学校では女性比率が半数にも及んでいるのだという。

第四章「世界で生きる職人に求められるもの」
「日本の常識は、世界の非常識」
そのことを受け入れることが世界で活躍するために求められることである。それが習慣やマナーであっても、である。

第五章「こんなに違う「繁盛する条件」」
日本では寿司屋を開業するための障壁は低いが、きわめて「レッド・オーシャン」と呼ばれる状況にあるため、成功しにくい状況にある。海外では出店する国や地域によるが参入が厳しく制限されているところもある。
そのような生涯があったとしても場所によって、異なるニーズを汲み、それを形にすることで、繁盛するのだというところは、共通認識として挙げられる。

第六章「もう「飯炊き三年握り八年」ではない」
本章のタイトルにあるように、かつて日本では板前と同じように約10年にも及ぶ修行が必要だった。さらに言うと寡黙な「職人」というものでは海外で寿司職人として大成することは不可能であるという。
ある程度修行は必要であるが、それ以上に異文化を理解することと、客とのやりとりも求められる。

第七章「価値に気づいていないのは日本人」
寿司は日本を代表する食文化の一つである。しかし日本独特のスタイルがそのまま海外で受け入れられるのは難しい。もっと言うと寿司は海外でも日本でも「進化」をしている。それに気づき、先鞭を打つこともまた寿司の価値を高める道の一つである。

「伝統」は守る部分もあるのだが「進化」をする事もまた大切である。守ってばかりでは川の流れがせき止められ、せせらぎがなくなり、やがて水も黒く澱む。日本も知らない寿司の「進化」、それに気づき、武器にしていくことこそ、日本の食文化を守るための手段ではないかと提言している。