シリーズ「中勘助~流麗と幻想の間で」~2日目 「生活」と「追想」を描いた随筆

本来であれば昨日取り上げる予定でしたが、都合により本日取り上げることとなってしまいました。大変申し訳ございません。

一昨日も書いた通り、2日目は随筆作品について取り上げてみたいと思います。
随筆は短編が多いのでこちらの文献からいくつか取っていきたいと思います。

<妹の死>

1912年の夏に取り上げられた作品です。今から100年以上前の作品です。中勘助作品のなかでも初期の頃と言えます。

舞台はその作品が発表される18年前の秋の頃に妹の死に遭遇したときにおける、自らの心情を文章にしている所です。18年前と言えばちょうど日清戦争が始まった時です。

そこには「銀の匙」(初出版)のことについても言及されており、その原稿を作成しているときに遭遇したそうです。

<夏目先生と私>

初日にも書いたのですが、中勘助と夏目漱石の関係は高校の時からの仲であり、師弟関係を築いていきました。

その中勘助と夏目漱石が当時の一高(現:東京都立日比谷高等学校)の一年生の時、授業で初めて出会ったのだと言います。生真面目のように見えていて、落語をほぼ毎日のように聞いていたことから(特に三代目柳家小さんを贔屓にしていた)、言い回しやジョークが独特でした、紳士の風貌でありながら、人間嫌いの中勘助にとっては最良の恩師でした。

<母の死>

1935年に中勘助の母が亡くなりましたが、その亡くなるまでの母の状態と自分の心情について、断片的に書いたものを取りまとめた所です。

おそらくメモ帳にその時々の心情や詩を記録し、それをひとつの随筆としましたが、細々とした心境の変化はあれど、母が生き続けてほしいという切実な願いは一貫していました。

<遺品>

終戦を迎える1ヵ月ほど前のことを記しています。
中勘助の兄が戦死し、遺品整理を行ったときの事を随筆とした作品です。

兄は生前、弟の勘助を馬鹿にしており、本人も兄を嫌っていたのですが、遺品整理している最中に、兄弟の思い出の品とともに、兄の弟に対する本心も垣間見たと言います。

<独り碁>

中勘助は碁にも造詣が深かったと言えます。晩年は作品はあまりつくらず、親友や弟子と歓談する他は、ほとんど独り碁を行っていたと言います。

その独り碁の趣味は30歳の時から長らく行っていたと言います。

さて、明日はいよいよ著者の原点である「銀の匙」を取り上げていきたいと思います。