錯覚学─知覚の謎を解く

皆さんは「錯覚」を覚えたことがあるのだろうか。
私も普段の生活の中で「錯覚」を覚えてしまうようなことは度々ある。それは何気ないところにもあるのだが、科学雑誌で「錯覚」を覚えさせられるような本もあり、それで錯覚を呼び起こしてしまうこともある。

その「錯覚」はいったいどこから来ているのだろうか。その「錯覚」によって日常生活においてどのようなリスクを生じてしまうのだろうか。本書はそれらについて論じている。

第1章「「百聞は一見にしかず」と言うけれど」
本章のタイトルのような諺がある。しかし一見しても何もわからないものもあれば、一回目で見たものと二回目でみたものが同じでも、受ける印象が異なるときも多々ある。
それを「錯覚」の一つであるのだが、本章では「錯覚」そのものの定義と出てくる「錯覚」の種類について取り上げている。

第2章「人間に「正しく」見ることは可能か」
「正しく見る」とはいったいどのようなものかを知ることから始まる。
そもそも「正しい」ということも曖昧な表現であるのだが、本章では「カメラ」映像を「正しい」とし、自ら見える映像との関係、あるいは角度の見え方についてを検証している。
認知科学というのもあるが、美術でも風景や物体の描き方として使われる事もある。

第3章「二次元の網膜画像が三次元に見える理由」
目から来る画像は三次元である。しかし絵や写真は「二次元」でものを見るのだが、そこから浮かぶ風景は三次元に映ってしまう。
本章ではそのメカニズムについて迫っている。

第4章「地平線の月はなぜ大きく見えるのか」
地平線上に月がくることはあまり見かけない。ただ、太陽が地平線上に沈む光景は何度か見たことがあるので、それとよく似ているのかもしれない。太陽が地平線上に沈むときに、輝きは弱くなりつつ、色も赤くなり、大きくなりながら沈んでいく。本章ではそれを「天体錯視」と定義づけている。

第5章「アニメからオフサイドまで―運動の錯視」
タイトルを見る限りサッカーアニメのことを語っているのか、というとそうではない。
アニメにしてもサッカーのオフサイドシーンにしても、錯覚がある。共通している「錯視」は「運動」しているものであり、俗に「運動錯視」という。

第6章「無い色が見える―色彩の錯視」
「色の錯視」を紹介しているが、ありふれた環境の中にある。その「色の錯視」の実例として青空や雲を挙げている。

第7章「生き残るための錯覚学」
動物には様々な感覚がある。その感覚の中で「錯覚」はつきものである。「錯覚」は生き残るために必要、もしくは生き残るために自然と身についた感覚であり、時代とともに変わっていく。

「錯覚」は自分の無意識の中でできていると言っても過言ではない。ましてやその「錯覚」を意識的にする事は学問として解明できるものはあるが、まだ解明できていないものも多い。錯覚もまた「人類の神秘」の一つと言える。

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