JR新宿駅東口を出て10分程歩いた所に寄席である「新宿末廣亭」が存在する。そこではほぼ毎日のように寄席が開かれるだけではなく、協会の垣根を越えた二つ目が「深夜寄席」を開き、芸の鎬を削る場所としても知られている。
その末廣亭の裏手に 「楽屋」という 喫茶店が存在する。寄席の裏にあるだけあり、出番前・後の芸人、寄席に足しげく通うファンらが、一息をいれるために集まる「隠れ家」のような喫茶店である。
その喫茶店ができたきっかけ、そして喫茶店に足しげく通ってくれた芸人の方々との思い出について綴っている。
第一部「楽屋編」
第一章「「楽屋」前夜」
本章には入る前に書いておかなければならないが、喫茶店の店主は五代目柳亭左楽の実孫である。五代目柳亭左楽のあらましについては第二部の「五代目柳亭左楽編」で詳しく記載する。
新宿末廣亭ができたのは昭和21年の時である。今のように毎日のようにファンがつめかけるようになったのは昭和20年代後半になってからのことである。その当時の苦労話を創業者であり、「大旦那」という愛称で知られた北村銀太郎のエピソードも綴っている。
第二章「「楽屋」誕生」
喫茶「楽屋」が誕生したのは末廣亭誕生の12年後である昭和33年である。今は繁華街のなかに寄席や喫茶店があるのだが、当時は草むらだけで何もなかったという。
さらに言うと、開店当初は大看板と呼ばれる師匠の方々が来店する一方で前座や二つ目、もしくは若手の真打には近寄りがたい雰囲気だった。店主が「五代目柳亭左楽の孫娘」というのが壁となったからである。
また、当時のしきたりもネックになっていた。師匠の方々がくつろいでいる間は前座はくつろぐどころか座ることさえ許されなかった。
第三章「「楽屋」で起きたいろいろなこと」
本章と第五章は様々な噺家が出てくる。落語やWikipedia、落語年鑑などでは知り得ないような裏話も出てくるので落語好きには必見の内容である。
「楽屋」には様々な芸人がくつろぐのだが、そのなかには寄席を無断休演した(寄席用語で「抜く」という)際の代演として「予備」が待機する場所でもあった。さらに末廣亭でしか見られない「深夜寄席」にまつわるエピソードも綴られている。
第四章「席亭、北村銀太郎」
新宿末廣亭の創業者であり「大旦那」として知られた北村銀太郎。数々の噺家との思い出について綴っている。
第五章「思い出の芸人さん」
創業当初から思い出に残った芸人、現在活躍中の芸人と世代は変われど、芸人が足しげく通う場所に変わりはない「楽屋」。
その「楽屋」の常連となった「芸人」も少なくない。昔は六代目春風亭柳橋、八代目桂文楽、存命の噺家では「笑点」の司会である桂歌丸の師匠である四代目桂米丸、八代目橘家円蔵など噺家や色物関わらず、多くの芸人と「楽屋」内外の裏話を綴っている。
第二部「五代目柳亭左楽編」
第一部の第一章で「楽屋」の店主は「五代目柳亭左楽の孫娘」と書いた。
では、五代目柳亭左楽はどのような人なのだろうか。「昭和の名人」と謳われた八代目桂文楽、八代目三笑亭可楽、四代目柳亭痴楽の師匠であり、落語の技術というよりも政治的な重鎮として存在した噺家である。若手を次々と抜擢する、名跡騒動の仲裁に立つなど、人望が厚く、人身掌握術にも長けている存在だった。
それ故、左楽が逝去したときの葬式は大規模なものとなり、新聞でも取り上げられたほどである。
五代目左楽を祖父にもつ著者が五代目左楽の日常やエピソードを事細かに綴っている。戦後間もないときに亡くなられたため、史料がほとんど無かったのだが、これほどまで事細かに綴られたエピソードは存在しない。
新宿末廣亭はいまも芸人やファンとともに愛されている。その裏手にある「楽屋」もまた、ビジネスマンや芸人たちが通いつめ、愛されている。昭和と現在の雰囲気が入り交じる新宿三丁目のなかにひっそりと建つ場所は今もなお生き続け、これからも生き続けることだろう。
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