NHK さかのぼり日本史 外交篇 [8]鎌倉 「武家外交」の誕生―なぜ、モンゴル帝国に強硬姿勢を貫いたのか

鎌倉時代の末路の一つとして、中国大陸における元王朝との外交の失敗もその一つである論者も少なくない。元王朝との外交の果ての中には「元寇」と呼ばれるような戦争も起こったのだが、そもそも日本は海外との外交はどうなったのだろうか、本書は鎌倉時代における外交とその失敗について考察を行っている。

第1章「幕府滅亡 強硬路線の果てに」
本書の構成は1333年の鎌倉幕府滅亡から、1192年の鎌倉幕府成立までさかのぼりながら考察を行っている。
鎌倉幕府の弱体化の引き金となったのは、大きく分けて4つ取り上げている。一つ目は1281年に起こった「弘安の役」が挙げられる。これは元寇のなかでも有名な戦争であり、元の軍勢が襲来しようとしたが暴風雨に救われた、ということである。その戦争が幕府崩壊の引き金となった理由には、戦争における元王朝からの高額な恩賞にあった。恩賞とは「功をほめて主君が金品などを与えること・もの」である。なおここで言う主君は日本の天皇や将軍では無く、元王朝の皇帝の事を指している。恩賞を巡った幕府の権力争い時の執権である北条時宗が死去してから激化した。そのことによって幕府は弱体化することとなり、崩壊の一途をたどっていった。

第2章「握りつぶした協調の道」
北条時宗の元王朝に対する外交姿勢は、「強硬」そのものだったという。その経緯は1274年に起こった最初の元寇(文永の役)に遡る。その経緯として1266年の元王朝と高麗との外交から、元王朝の皇帝であるフビライ・ハンが高麗の大使を通じて日本に興味を持ったことから始まった。興味を持ち始めてから、最初の元寇が始まるまでの8年間で、3度元王朝から朝廷・幕府に対して「国書」と呼ばれる外交文書が送られてきたが、幕府は強硬姿勢を貫いた。その「国書」の中身をもとに、協調外交を捨て、強硬姿勢に至った理由について考察を行っている。

第3章「幕府が信じた外交ルート」
そもそもなぜ「強硬姿勢」を貫こうとしたのか、それについても過去の歴史に因果関係があるのだという。その歴史は1260年に遡る。その年は元王朝における皇帝が変わり、フビライ・ハンが即位した時である。そのときから元王朝は中国大陸の統一を果たし、高麗も従属させた。当時の日本は西側の統治がままならない状態で、とても外交どころではなかった。外交をおろそかにした「より」が元寇につながる引き金となった。

第4章「源頼朝“敗訴”からのスタート」
最終章では、鎌倉幕府が成立した時から始まる。外交に対して慎重になったのはおろそかになったばかりではなく、実は平清盛が太政大臣をつとめていた時の外交の失敗も引き金となっている。平清盛の外交の失敗の「より」は公家からの裁判となって形に表した。その裁判に源氏は敗れたこともまた、引き金の一つとなった。

日本の外交の弱さは江戸時代の鎖国から始まったわけではない。歴史を紐解くと武家統治の始まりだった鎌倉時代でも同様のことが起こっているといえる。悪い意味で「歴史は繰り返される」という言葉がまざまざと知らしめてしまう一冊であったと言う他ない。

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