速記者たちの国会秘録

国会・自治体や裁判所などで「縁の下の力持ち」と呼ばれる様な仕事は数多く存在するが、その中でも資料や記録として大いに役立つ存在として「速記者」がいる。とりわけ裁判所では判決記録や後半のやりとり、国会・自治体にいたっては「答弁」が挙げられており、国会に至っては解説されてから「一部を除いて」全ての答弁が記録されている。

本章では速記者でしか知らない国会の裏側について、速記者達を取材したものをまとめている。

第一章「東京裁判「最後の生き証人」」
東京裁判(極東国際軍事裁判)は1946年から1948年まで行われた裁判であり、東条英機・広田弘毅らA級戦犯で起訴された28人が裁かれた場所である。
その東京裁判では被告・検事・裁判官のやりとりは速記者による「記録」が最も重要な史料となった。本章ではそれだけでは無く、速記者達、通訳者達、あるいは被告人などの「日記」や「手記」なども紹介しており、中には東京裁判における新たな史料まで触れられている。

第二章「速記者達を泣かせた「難物」議員」
国会は現在も続いているが、本書で取材された速記者とのやりとりの中で最も古い方として戦時中の鈴木貫太郎内閣時代以降に速記を行った方の取材を紹介している。中には女性記者もおり、当時の帝国議会、あるいは国会の事情についても事細かに綴られていた。

第三章「抹消された「バカヤロウ」発言」
最初に「一部を除いて」と言うことを書いたのだが、全て記録されているなかで唯一塗りつぶされた記録がある。1953年に右派社会党の西村栄一と首相・吉田茂の質疑応答中にぼそりと「バカヤロウ」と発言したという。不用意な発言であるが、ある種の愚痴を偶然マイクが拾ったためである。すぐに吉田は訂正したものの、発言が独り歩きし、内閣不信任案可決・衆議院解散に発展してしまった。
本章では担当した速記者本人にしか知らない塗りつぶされたエピソードが綴られている。

第四章「安保闘争が残した高い柵」
やがて時代は「60年安保(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)」と呼ばれる時代に入っていった。その「60年安保」を決めたのが時の首相である岸信介である。当時は戦後まもなく、かつ朝鮮戦争の火種が飛び火する可能性もあるような殺伐とした状況のある中で岸内閣は強行採決に踏み切っただけに、国民の反発も大きかった。
国会でも「強行採決」に踏み切っただけあって、与野党が入り乱れるほどの「乱闘騒ぎ」となった。本章では安保闘争を中心に「強行採決」となった時、そして「乱闘国会」になった時のことについて綴っている。

第五章「舌と喉が弱点だった池田勇人」
池田勇人、佐藤栄作、田中角栄
戦後間もない頃から首相として、政治・経済など縦横無尽に舵を取り、長期政権を担ってきた3人である。特に池田・佐藤は吉田学校の門下であり、政治的なイロハを学んだ。
3人の首相にはそれぞれの性格・特長が存在するのだが、3人の距離に近い速記者の立場から意外な側面について語られている。

第六章「コンピューターの“狂い”」
速記者はある種の「コンピューター」と言われるような存在なのかもしれない。独自の書き方、記録でもって正確な答弁を残している。
しかしその「コンピューター」も早口やぼそぼそ声、フィラーなどにより「狂い」が生じる事もある。早口で有名なもので言うと田中角栄が挙げられる。
もっと言うと田中角栄も役人時代には「計算機付ブルドーザー」という異名を持っていた。

第七章「台本があった「総理は男妾」発言」
「総理は男妾」という言葉が出てきたのは昭和46年に青島幸男が答弁の際に発言したものである。時の首相である佐藤栄作を皮肉った発言であり、自民党内でも懲罰動議にかかるほど物議を醸した。

国会や裁判所、自治体などの「縁の下の力持ち」となっている速記者、コンピューターなどの機械技術が発展していても未だに「速記者」としての存在は大きいと言える。それは記録面としてではなく、国会や裁判所の一部始終を新たな視点から見ることができる人として、という側面もある。

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