「仏教」と言うと、「般若心経」をはじめとした、読経を連想してしまうのだが、仏教僧の修行のように、様々な「苦行」を通して悟りを開くと言ったものもある。しかし「悟り」を開くために身体感覚は庶民にとっても「坐禅」など一部の行動でしか理解できない。
しかし、仏教には様々な所で身体感覚を覚えるものがあるのだという。本章は「肌で感じる」ことを念頭に置きながら「仏教」とは何かを紐解いている。
第一章「ブッダとダルマ―仏教を実感するとき」
著者が仏教について、初めて肌で感じたのは10代後半の頃だった。禅僧との縁で坐禅を体験する事になった。当初著者は坐禅に関して理解はできなかったが、いざ体験をすると、何モノにも変えがたい不思議な感覚に陥った。同時に文章から仏教を学んできたものが、自ずと肌で理解できるような感覚に陥ったのである。
本章では他に仏教がどのようにして成り立っていったのか、その根源について「ダルマ」の関連性について考察を行っている。
ちなみにダルマは置物としての「達磨」であるが、根源は禅宗の始祖であり、「達磨大師」と呼ばれている。
第二章「縁起・山、そしてこころの変革」
「縁」「縁起」という言葉は日頃私たちの生活でもよく使われる。しかしこの「縁」と言う言葉は仏教から来ている。仏教の聖典の中には「性を縁として老死あり(p.61より)」と言う言葉がある。その「縁」とは仏教においてどのように形成されたのかを考察するだけでは無く、今日の日本のように「無縁社会」をどのように見るのかについても紐解いている。
第三章「仏教の変容と救済―インドから中国・日本へ」
仏教が発祥されたのはインドであり、そこから中国大陸に伝えられ、やがて日本にも伝えられた。当初インドでは徐々に密教化していったのだという。その原因には「イスラム教」が横たわっていた。仏教は国に渡るにつれて、儒教や神道など元々あった宗教と交わるようになり、国々で独自の仏教を築いていった。それが大きく分けて「大乗仏教」「上座仏教」になり、宗派も数多くできるようになった。
第四章「法華経―現世に向き合うとき」
「法華経」は東アジアを中心に広く伝えられており、日本でも良く使われる経典の一つとして数えられている。全28品ある経典には「煩悩」「現世」「智慧」など多岐にわたるのだが、法華経と現世との関わりについてを本章で取り上げている。
第五章「浄土教と日本人の霊魂観」
「浄土教」は浄土門を教えとした仏教の一つであり、「浄土門」とは、
「現世において修行し自力で悟ろうとする聖道門に対して、阿弥陀仏の浄土に往生して仏果を得ようと期する教え」(「広辞苑 第六版」より)
とある。浄土教そのものの隆盛は平安時代の中期、「源信」と呼ばれる僧侶が天台浄土教を広めていったことから始まる。その広がりは平安・鎌倉と数百年に及び、日本人における仏教を築いていったと言っても過言では無い。
そして本章でもう一つ取り上げられているものとして「霊魂」がある。「霊魂」というと神道では「御霊(みたま)」を思い浮かべるのだが、奈良時代末期に京都で疫病が大流行したときに神仏混合の儀式を行ったことにより、仏教にも「霊」にまつわる考え方が取り入れられ始めた。
第六章「華厳経の時代―その世界観・生命観」
2010年に奈良で「平城京遷都1300年」の節目を迎えた。そのことから奈良、及び奈良時代における関心が高まっていった。奈良にある寺社の中で有名なものもいくつかあるのだが、(奈良)東大寺もその一つとして挙げられており、本尊には高さ14メートルの大仏がある。この大仏は「華厳経」の教主である「毘盧遮那仏(びるしゃなふつ)」である。この「華厳経」と現代との関連性について本章では取り上げている。
著者自身の仏教体験から、仏教そのものの歴史や経典について紐解いているのだが、そもそも仏教についてあまり理解できない人にとって「仏教とは何か」と言うことを問うには難しくもあり、仏教についてそれなりに知っている人に取っては、「体験」の中で得られる参考材料になる。自分自身も仏教についてはわからない部分がほとんどである。そのわからない「片鱗」を埋めてくれる一冊になるのは確かである。
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