「妖怪」の話は日本でも大昔から言い伝えられている、古くは「祟り」として人に疫病をもたらすと言われていた。江戸時代にはいると、「瓦版」と呼ばれる現在のニュースが妖怪にまつわる話を載せるようになったのだが、大概は迷信やデマだったという。
その妖怪の話について「学問」として確立し、妖怪の歴史や民話を集め体系化させた学者がいる。その学者の名は「井上圓了」。本来は哲学者・宗教学者出会ったのだが、なぜ「妖怪学」を確立させたのか、そして哲学者・宗教学者として井上圓了はどのような功績を築いたのか。本書は「評伝」として綴っている。
第一章「哲学者圓了―越後長岡、寺育ち」
井上圓了は1858年越後藩(現在の新潟県)に浄土真宗大谷派の寺の息子として生まれた。幼い頃から私塾で学問を学び、思想の基礎を築いていった。やがて明治維新が起こり、西洋文化・思想も取り入れられるとともに、仏教思想も同時に学んでいき、哲学者としての井上圓了を確立させた。圓了の哲学は後に、日本哲学の基礎を築いた西周や西田喜多郎に影響を受けた。
第二章「妖怪学者圓了―迷信撲滅をめざして」
江戸時代から「瓦版」が生まれ、様々なニュースが流れたのだが、妖怪にまつわるデマ、あるいは迷信話がよく伝えられた。それ以外にも妖怪における「祟り」についても、あたかも「迷信」の様に伝えられた。哲学を学んだ圓了はその迷信を否定するために、哲学の中に「妖怪学」という学問を始め、研究を重ねていった。
妖怪学は「迷信」や「祟り」を否定するために始めた学問が、意外な効果を生み出すことになった。
第三章「続妖怪学者圓了―宿敵勢揃い」
どうして「意外な効果」を生み出したのか、というと、「妖怪」の定義が体系化されたことにより、怪談話が盛んに出るようになった。有名なもので言うと、落語における「中興の祖」「近代日本語の祖」と言われた三遊亭圓朝、遠野物語などの民話作品を世に送り出した民俗学者の祖・柳田国男、そして「耳なし芳一」など子どもたちに伝えられる怪談話を生み出したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が挙げられる。特にハーンと圓了は交流が深く、ハーンが住んでいた松江に圓了が直接行った、という話まである。
「妖怪学」の学問そのものは現在も続いており、「ゲゲゲの鬼太郎」で知られる水木しげる、さらには京極夏彦作品など小説・マンガ・アニメにも伝播している。
第四章「宗教改革者圓了―寺院なくして信仰ありや」
圓了は寺の息子として生まれたのは第一章に書いた。圓了は宗教学者として、そして宗教改革者として寺院の重要性を説いたのはあまり知られていない。
しかし、寺院の息子であることを誇りに思い、「仏教活論」や「真理金針」などを世に送り出した。
最後に井上圓了でもっとも印象に残る事件として「哲学館事件」が挙げられる。
1902年に哲学館(現:東洋大学)で初めて無試験の教員が誕生するはずだったが、哲学館の卒業試験で「動機が善ならば親など目上の人を殺すことも許されるであろうか」という問いに、学生が「許される」と回答したことが事件の発端となった。なぜ事件になったかというと、当時は目上の人が絶対視されており、目上の人を殺すと言うことは「天皇を殺すこと」と同意義であり、国体の崩壊につながりかねない思想を持っていたからである。それを重く見た文部省(現:文部科学省)は廃校を前提とした教育方針の変更を迫った(後に撤回)。
そのような事件はあれど、圓了は哲学者として、そして妖怪学者として、大きな功績を築いていったのは紛れもない事実である。
コメント