SL機関士の太平洋戦争

大東亜戦争(太平洋戦争)は様々な記録・記憶が残っているが、本書はSL機関士の観点から大東亜戦争とは何だったのか、元機関士の証言をもとに綴っている。大東亜戦争前は日本本島もさることながら、満州や台湾、朝鮮半島での近代化も行われてきたのだが、中でも鉄道は輸送機関として貴重なインフラ資源だった。

第一章「機関士を目指した愛国少年たち―14歳で機関区の門を叩く」
戦前、SL機関士は少年にとって憧れの職業であったという。大東亜戦争直前は日本・中華民国、さらには日本・アメリカの対立が深刻化し、物資も不足し始めた時のことであった。いつ戦争が起こってもおかしくないような状況のさなか、機関士を目指した少年たちは、勉学の道を断たれるも機関士を夢見て、日々機関車を磨いたり、厳しい鍛錬を受けたりしていた。その厳しさは言葉では言い表せないほど「過酷」なものだった。

第二章「機関士は死線をかいくぐった―危険に満ちた「銃後の守り」」
日中戦争(支那事変)・大東亜戦争という戦争の中で機関士はどのような立場に置かれたのだろうか。まず、日中戦争だが、戦争により機関士の先輩が戦争にかり出されており、鉄道は人材不足にあえいでいた。ほかにも戦争のための機関士として「戦時輸送」という重い任務に携わる人もいた。しかし機関士になった少年たちは「御国の為」という崇高な使命を背負い、死線をかいくぐりながら戦地へと赴いた。だがその中で空爆や原爆の被害にあった機関士たちもいた。

第三章「われら鉄道兵―戦地で鉄道を敷く鉄道連隊の戦い」
兵隊にとって物資は貴重な資源であり、その資源を輸送する重要な役割として「鉄道兵」と呼ばれる機関士も存在した。軍需工場から本土を鉄道でわたり、敦賀などの港を出て海を渡って、戦地へと渡っていった。その道中でも戦禍に巻き込まれ、犠牲になった鉄道兵も少なくなかった。
本章ではとりわけ日中戦争のさなか中国大陸に物資を運んだ元鉄道兵たちの証言を取り上げている。

第四章「戦時輸送に散った命―山田線・豪雪の峠で起きた脱線転覆事故」
戦禍に巻き込まれて亡くなった鉄道兵も少なくないといったが、昭和19年の3月、戦争が激化の一途をたどった矢先、東北地方では太平洋側を中心に暴風雪に見回れた。その暴風雪の影響で山田線の所々で雪崩が発生し、線路が寸断されたり、貨物列車に直撃したりして、機関士が犠牲になった。
本章では山田線界隈で働いた、あるいは物資を運搬した機関士たちの証言をまとめている。

第五章「命をつないだ引揚輸送―ソ連軍の追撃下、樺太からの脱出」
日本軍の兵士は中国大陸をはじめとしたアジアに渡っていった人も多いが、北海道を経由して千島列島・樺太(サハリン)に渡っていった日本軍も少なくなかった。千島や樺太に行った日本軍達が戦渦に巻き込まれたのは8月9日になってからのことである。あたかも奇襲攻撃のように戦禍に見舞われた兵士達は、日本本土に戻ること、さらにはソ連軍の南下を食い止めるために敵兵や自然との闘いに四苦八苦した。

第六章「混乱の無秩序のなかで―終戦直後を生きた機関士たち」
1945年8月15日の終戦を迎えた後、国民は混乱や飢餓などに巻き込まれた。鉄道関係者は一時の休息すら許されずインフラの復興に奔走し、列車も首都圏のラッシュアワーとは比べものにならないほど殺人的な混雑に見舞われた。また鉄道を走るための物資も不足しており、機関士が自ら炭鉱に行き、石炭を調達する、といったこともあった。

第七章「一刻も早く故郷へ、家族のもとへ―舞鶴からの引揚者」
海外へ戦地に赴いた元兵士の引揚げも戦後間もないときから長期にわたって行われた。その引き揚げにも機関士の力が必要だった。特に引揚者を受け入れるためには港が必要だったのだが、日露戦争の日本海海戦で軍用港として重要拠点を築いていた、京都の舞鶴湊が引揚者受け入れの拠点となった。

戦前・戦後間もないときは蒸気機関車が重要な移動・輸送インフラとして役立っていた。その蒸気機関車を運用するために機関士という職業があり、過酷な訓練を受けた。それは戦時中でも変わらず、戦争でも、そして終戦後の引揚げでも陰で重要な役割を担っていた。本書はその支えとなった「陰」の部分をクローズアップしている。

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