日本語の哲学へ

本書の著者はNHK経営委員の一人で「朝日新聞東京本社襲撃事件」を起こし、拳銃自殺を遂げた野村秋介を礼賛する発言が話題を呼んだ方の一冊である。
元々著者は哲学者であり、欧米における近代哲学を片っ端から批判しつつ、日本ならではの探求し、掘り起こした、現代日本哲学を形成づけた立役者の一人として知られている。
本書は彼女における「日本の哲学」の集大成と言えるものである。

第1章「日本語と哲学」
元々哲学は「Philosophy」というものである。それが「哲学」という日本語になったのは明治時代のときに西周によって名付けられた。その後昭和10年に和辻哲郎

「日本語をもって思索する哲学者よ、生まれいでよ。」(p.8より)

という主張がなされた。当時著名な哲学者は、和辻氏の他に、日本における近代哲学の祖である西田幾多郎くらいだった。

第2章「デカルトに挑む」
中世から近世における哲学の祖といえる存在には「ルネ・デカルト」がいる。私の座右の銘である「我思う故に我あり」という名言を残した哲学者である。
しかし、そのデカルトの哲学について、著者は和辻哲郎の哲学でもって真っ向から挑もうとしている。

第3章「「ある」の難関」
「ここに~が『ある』」という言葉があるのだが、「ある」という言葉について哲学的にどのようなものなのかを分析しているのだが、英語では「be」、ドイツ語でも「Sein」というような単語に置き換わる。他にも「ある」というのは存在だけではなく、「ある・なし」というように「肯定的な意味」で使われることもある。「ある」の用法は様々であるのだが、定義そのものは哲学的にもなかなか難しいという。

第4章「ハイデッガーと和辻哲郎」
ハイデッガーの哲学で有名なものとして「存在と時間」である。その「存在と時間」について、「存在」における哲学的な意味、「時間」における哲学的な意味などを和辻哲郎の「哲学の根本問題」という論文を発表し、ハイデッガーの定義を批判している。著者は和辻哲郎の哲学を取り上げながら批判しているのだが、ここではハイデッガーの哲学、和辻哲郎の哲学の両方を平等に比較しながら考察を行っている。

第5章「「もの」の意味」
本章と次章では「もの」「こと」という言葉を和辻氏が問い損ねていた事から始まる。それはなぜ「問い損ねたのか」ということを分析しつつも、著者が分析した限りの、和辻氏の「もの」「こと」を展開している。
まずは「もの」なのだが、日本語としての意味、さらには万葉集などの和歌を通じて、風情などの叙情的な意味など、様々な角度から論じている。元々第3章にも通じるところがあるのだが、「有る」と「在る」の違いもある。

第6章「「こと」の意味」
「もの」は物的な存在としてあるのだが、「こと」は時間的な意味としての「存在」として挙げられる。ただ「こと」としては、「~だこと」というような末尾の表現をすることがある。そういってしまうと「~だもの」というような表現もあるのでは、という突っ込みもあるのだが。とはいえ「こと」は漢字に直すと「事」になる。いわゆる時系列の事柄について取り上げられる。

そもそも日本語における「哲学」を取り上げた人物はほとんどいない。そのほとんどいない人のなかに和辻哲郎氏が挙げられるのだが、日本の哲学界はこの「日本語」について新しい学説が出てくるのか、あるいは哲学者が出てくるのだろうか、定かではない。