揺れ惑いおり、妻逝きて

「妻を自宅で看取る」という選択は現在、珍しい物でもない。いわゆる「在宅死」という類だが、以前にも「地域・施設で死を看取るとき」という本で取り上げたので、「在宅死」に関する詳しい解説は省略する。

「在宅死」の概念は現代社会にも浸透しているが、もしも最愛の人が死の直面に瀕していたときにどうなるのか、それを小説にしたためたのが本書であるが、フィクションながら著者自身の体験を題材にしている。病気が発病してから闘病生活、衰弱状態になって、亡くなり、一周忌を迎えるまでを時系列で綴っている。なぜ本書を小説にしたためたかったのか、それは、

「この小説を書こうと思ったきっかけは、妻を亡くしたその喪失感から逃れたい気持ちからであった。ほぼ四十年間もともに生活してきた妻は自分の分身、いや私の存在そのものだった。その妻への弔意を示したいという思いが、筆をとった最大の理由である。
 また、初めて身近な人間の死をまのあたりにすることで生じた疑問を提示してみたかった。誰もが必ず死ぬ運命にありながら「人は自らの人生をあまりにも軽視して生活してはいないか」と強く観じたからだ」(o.6より)

おそらく「軽視」している理由は、ほぼ連日のように報道されている殺人事件を見て、あるいは20~30代の死因で最も多い自殺である現状を嘆いているのかも知れない。

「天寿を全うする」と言う言葉があるのだが、その現状を見ると「死語」に近づいているようにおもえてならない。愛する人の「死」がどれだけ重く、どれだけ尊いものなのか、と言うのを「小説」と言う形で伝えたかった一冊であり、それを生々しくとらえたのが本書と言えよう。