賭ける魂

「ギャンブル」と言うと「お金を賭ける」と言うイメージが強いのだが、その「賭け」は決して「お金」ばかりではない。プライドや勝負観など、賭ける人そのものを賭けているのかも知れない。具体的にどう言うのか、自分自身でも上手く書くことは難しいのだが、自分自身ギャンブルに限らず、勝負に対して様々な「賭け」を行っている(もちろんお金を伴わないが)。その「賭け」とは人間の中のどこに来ているのか、そして私たちはお金のあるなしにかかわらず「賭け」をしたがるのか、本書は人類学の観点と、著者自らの体験から「賭け」の定義について迫っている。

Ⅰ.「人間は自分以外の力を必要とする」
「自分以外の力」と言う言葉を聞くと意味不明のように聞こえてしまうのだが、実際の所「自分以外」というのは「言葉の綾」みたいなもので、「運」とも言える。実際に「運」にしても確率的に算出することはできるものの、奇跡的な確率で当たることもある。そのことを考えると「自分以外の力で勝つ」と言うのも往々にしてある。ちなみに著者はそのことを検証すべく競馬の予想を行ったという。運の勝負と言うよりも「山勘」と言った方が良いのかも知れないが。

Ⅱ.「自分のことはわからない」

「ギャンブルで一番強いのは、けっして自分の型をもたない人間であろう」(p.66より)

これはギャンブルにおける勝負の鉄則のようなのかも知れない。この言葉を引き合いに出しているのは「雀聖」と言われ、日本における麻雀の歴史の根幹をつくった阿佐田哲也(色川武大)氏を始め、漫画家の黒鉄ヒロシ氏、さらには無頼の将棋棋士と言われた芹沢博文氏らがいる。

Ⅲ.「賭ければパラダイス」
私自身も大学に入った頃は賭け事みたいなのをやっていた。実際に競馬はやったことがないものの、ゲームセンターの競馬はよくやった。もちろんアルバイトで稼いだなけなしのお金をドブに捨てている感じだったが。それでも「もっとやりたい」という快楽に溺れて、来る日も来る日もやっていたと言える。それくらい「賭け事」にはドラッグのような快楽、依存症みたいなのがあるのかも知れない。今となっての依存症は「読書」と言った方が良いのかも知れないが。
とはいえカジノにしても競馬にしてもギャンブルに溺れる人は少なくない。文豪でもロシア文学の大家と言われるフョードル・ドストエフスキーはギャンブルに溺れ、借金をし、借金を返済するために数多くの作品を生み出さなければならない状態に陥った。それで名作を生み出し、稼いではまたギャンブルに陥るという、悪循環な人生を送ったというのは有名な話である。

Ⅳ.「われわれはどこへ行くのか」
著者は長々とギャンブルを続けていって運のメカニズムや賭けることについてある程度は掴むことはできた。しかし賭けを通じていったいどこに執着していくのか分からなかった。その「分からなかった」理由や、著者がこれからどのように「賭け」と関わっていくのかについて綴っている。

「賭け」は魅力的であり、かつ誘惑されると、抜け出せなくなってしまう。実際に「賭け」とはいったい人間にどのような作用があるのか、そのことについて知る事のできる本はなかった。そういう意味で本書は画期的な一冊と言える。