電話交換手たちの太平洋戦争

「電話交換手(でんわこうかんしゅ)」という方々がかつていたが、今となっては全く言ってもいいほどピンとこない。そんな方が多いので、ここで詳しく説明する。

今となっては携帯電話にて遠距離で電話を行うと「ププッ」と言う音が何度か聞こえるが、これは自動交換機によって、リレー方式に回線の自動交換を行っている。これができたのは日本では1965年の事で、それから自動交換が広がり、全国津々浦々まで伸びたのは1979年のことである。

ではそれまではどうしていたのかと言うと、回線のリレーを手動で行う必要があった。そこで「電話交換手」が出てくる。電話交換手は手動で配線のつなぎ替えを行う役割を担う方々であり、伝えられた通話先をもとに、配線をつなぎ替え、中継する役割を担っていた。そのためか「電話交換手」がいたときと、現在の様な自動交換機の時代と比べてもかなり遅く、通話できるまで数分、かなり昔には数十分~数時間かかると言うこともあった。そのため電話交換手は当時の電電公社(現:NTT)が主導して行われていたとされている。

豆知識であるが、よく電話で使われる「もしもし」は元々「申し上げます、申し上げます」の略で電話交換手が使っていたと言われている。

電話交換手の説明はここまでにしておいて、電話交換手の存在は電話が誕生した頃から存在しており、言うまでも無く大東亜戦争(太平洋戦争)の時にも存在した。その方々が戦争中、特に東京大空襲や大阪大空襲など、全国の主要都市が空襲を襲ったとき、さらには広島・長崎における原爆投下時に、どのような心境だったのか、そのことについて綴られている。

そして「電話交換手」と言うと最も有名な事柄として「サハリン・真岡郵便局事件(真岡郵便電信局事件)」が挙げられる。これは1945年8月20日にソ連が樺太に侵攻し、真岡郵便局のある真岡町にまで攻め込まれたとき、その郵便局に勤めていた9人の電話交換手たちが自決をしたという事件である。この時の言葉として、

「交換台にも弾丸が……。あたしたちはもうおしまいです。もうどうにもなりません……。局長さん、皆さん、これが最後です。さようなら……。長い間お世話になりました。お達者で……、さようなら・・・…さようなら……」(p.225より)

と言うのが有名である。私自身もそのことについては小学校の頃に知ってはいたものの、ここまで詳細に記録されているのは本書で初めて知った。ちなみにこの事件は2008年に「霧の火~樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち」と言う名でテレビドラマ化されている。