ニーチェはこう考えた

4年前に「超訳 ニーチェの言葉」と言う本が大ベストセラーとなった。その中で「本書はあくまでスタートラインである」と言うことを書いた覚えがある。

私事はさておき、ニーチェの代表作とすると「ツァラトゥストラはかく語りき」という作品がある。本によっては「ツァラトゥストラはこう言った」という記載もあるのだが、それをもじって「こう考えた」と言うタイトルにしたのかもしれない。

本書はあくまでニーチェの生涯をもとに、ニーチェはどのような考えを持ったのだろうか、そのことについて取り上げた一冊である。

第一章「二人の神さま」
フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェはプロイセン王国(現:ドイツ)の小さな村で生まれた。ニーチェは小さい頃は「いい子」と呼ばれる程、真面目人間だったのだが、その真面目さが人間としての「バランス」を欠き、後のニーチェの哲学思想に大きく影響を与えた。後にニーチェは特待生で有名な学院に入学し、エリートコースまっしぐらの人生を歩み、24歳でバーゼル大学の教授になった。そのエリート街道のなかで迷いや悩みがなかったわけではない。その迷い・悩みについて心の支えとなった「二人の神さま」がいた。その二人がショーペンハウアーワーグナーである。

第二章「ほんとうのある人」
ニーチェの哲学を読み解くには3つに分けて考える必要がある。

1つは、第一章で述べたショーペンハウアーとワーグナーの影響を受けた時期、
1つは、ショーペンハウアーやワーグナーから離れ、あらゆる宗教・文化・芸術を否定し、自らの哲学を模索する時期、
1つは、神そのものを否定し、自分なりの価値・理想を立てた時期

当然この3つそれぞれで哲学書も取り上げられているのだが、それぞれニーチェが遭遇したもの・こと・人などを取り上げつつ、ニーチェの人生がいかにして哲学に反映したのかについて考察をおこなっている。

第三章「徹底的に台無しにすること」
本章のタイトルはショーペンハウアーとワーグナーの影響から外れ、あらゆるものを否定した時期、第二章では2つ目の部分にあたる。もともとニーチェとワーグナーとは個人的な交流があった。バイロイト祝祭劇場が落成し、第1回のバイロイト音楽祭が開催された時にはニーチェ自身とワーグナーに隔たりが生じ、演奏会を聞いて、ニーチェも落胆してしまった。
(元々第1回は「ニーベルングの指輪」が上演されたが、出来は散々だったと言われている)
それが引き金となりワーグナーと決別してしまった。
一時はワーグナーと蜜月関係にあったような状態からの決別は、あたかも失恋のように答えてしまい、思想そのものを大きく変えてしまった。そのような状態の中で出た代表作が「人間的な、あまりにも人間的な」である。

第四章「人間、このちっぽけな」
第二章の2つ目の3つ目の思想の間には、同郷ドイツの著述家ルー・アンドレアス・ザロメの交流があった。初めて会ったのはちょうど「悦ばしき知識」が上梓された同時期である、1882年だった。一時は恋人関係になり、ニーチェはザロメに結婚まで申し込んだのだが、ザロメにつれない返事を返されてしまい、失恋してしまった。その失恋体験が後の「ツァラトゥストラはかく語りき」を欠くきっかけになる。その「ツァラトゥストラはかく語りき」の中に記載されているものの中に本章のタイトルが記されている。

第五章「うじうじくよくよからよろこびへ」
「ツァラトゥストラはかく語りき」以後の思想は「永遠回帰」や「力への意志」「ルサンチマン(弱者が強者に対して、憤り・怨恨・憎悪・非難の感情を持つこと)」「ニヒリズム」と言った思想になった。その中でニーチェが書き上げられなかったものとして「力への意志」がある。では、どのような「力」なのだろうか、本章を見てみると「ニヒリズム」と共通するところがある。それは今までの価値を打ち破る、考えや誤謬を打ち破るという「力」に通じている。
もう一つニーチェ末期の思想の中で「永遠回帰」が挙げられるのだが、意味は本章のタイトルにある「うじうじくよくよ」そのものである。

第六章「みんな苦しんで大きくなった」
成長する、大きくなる時は誰しも「苦しみながら」大きくなろうとする。それはニーチェ末期の思想の一つである「力への意志」にも取り上げられている。その力への意志をはじめとしたニーチェの思想に影響をされた人物は何人かいて、有名な例ではジル・ドゥールズ、ミシェル・フーコー、ジョルジュ・バタイユが挙げられる。

ニーチェの思想は読めば読むほど奥が深い。最も第二章で3つに分けたとおり、ニーチェそのものの人生の中で哲学の根本も大きく変わっている。有名な作品ばかりが全てでは無いし、ニーチェの生涯を追ってみると、ニーチェの著した哲学への理解も深まってくる。そのためニーチェの著作を読む前にも読んでおきたいし、ニーチェの著作を読んでいる傍ら、どのような境遇で書かれたのかという解説本的な役割を持っているのが本書と言える。