藝、これ一生―米朝よもやま噺

落語界史上2人目の人間国宝で、上方落語における「中興の祖」の一人だった三代目桂米朝が今年の3月19日に逝去された。はんなりとした語りのなかで描かれる落語が非常に面白く、数多くの落語を掘り起こし、さらには多くの弟子を育て上げ、上方落語の復興に身を捧げたと言っても過言ではない。

桂米朝が晩年、自らの芸、弟子、上方落語のこれまでとこれからについて「聞き書き」という形で残したのが本書である。

<看板、一枚あったらそれでええ>
「看板」というと「名前」を表しているイメージがあるのだが、著者の話によると、いわゆる「看板スター」のことであり、そういった方々が落語に限らず、落語、浪曲にしても何人もいる。しかし著者がそういった「看板スター」は一人いるだけで大丈夫であり、それだけでお客があつまるのだという。ちなみに「看板一枚」は業界内で一枚というわけではなく、興業において看板が一枚あったら良いと言うことを表している。

<歌というものは言葉やなぁ>
フォークシンガーの高石ともやのことを中心に綴られている。米朝と高石ともやとの付き合いは学生時代からの付き合いだという。米朝は後述するもう落語研究家・正岡容(まさおかいるる)の門下に入ったばかりの頃であり、出会った当初からの交流についても取り上げられている。

<弟子もいろんなのがおるわ>
米朝門下には数多くの弟子がおり、上方落語の中でも最大派閥と呼ばれる程の数だという。門下の中には二代目桂枝雀二代目桂ざこば五代目桂米團治といった弟子、三代目桂南光四代目桂塩鯛月亭八方などの孫弟子、七代目月亭文都月亭方正といった曾孫弟子など有名な落語家を多く輩出している。
ここでは弟子のエピソードはもちろんのこと、落語・漫才、もっと言うと東西問わず名人たちとの交流を綴っている。

<弟子を取るのは大事なことや>
前章にも書いたのだが、米朝一門は数多くの弟子を抱えた。その弟子の取ることの重要性について、落語を語り継ぐことはもちろんのこと、落語を教える際にも、弟子を育てる際にも勉強になるのだという。
ちなみに米朝の師匠は二人いる。一人は四代目桂米團治、そしてもう一人は先程記した正岡容だった。門下となった時期は正岡の方が早く、戦後間もない時に正岡の言葉を受けて四代目米團治に入門し、本格的に落語家になったという。元々正岡は東京に住んでいたのだが、米朝が学生時代に東京に在住しており、そこで正岡が主宰している落語会を聞きに行ったことがきっかけで入門することになった。本章でも正岡とのエピソードが綴られている。

<「京都では上方と言わへんよ」考>
関西で生まれた落語を、東京で生まれた「江戸落語」と対比して「上方落語」と呼ばれている。ちなみにその「上方」という名称は、

「明治維新以前、京都に皇居があったため、京都およびその付近、また、広く畿内地方を呼びならわすようになった称」(「広辞苑 第六版」より)

とある。元々は京都からきているのだが、本章のタイトルは五代目桂米團治の妻が指摘した言葉である(ちなみにその妻は京都出身である)。
本章では「上方」という言葉のルーツをはじめ、お囃子の大看板だった林家とみとのエピソードなどが語られている。

<わしの名前、なんぼやろ>
米朝の名跡は途中で襲名したものではなく、米團治門下に入った時から名乗っていた名前である。ちなみに「桂米朝」の名跡は、著者の他にも2人いるが、いずれも「桂文團治」「桂米團治」の襲名する前の出世名だったのだが、著者により一枚看板に成長した。
本章の話に戻る。その「米朝」という名前についてある弟子が本章のタイトルのような質問をかけられたという。

<上方風流(ぶり)、話尽きなんだ>
「風流(ふりゅう)」と書いて「ぶり」と読むのは本章で初めて知った。元々風流は芸能用語で、歌や踊りなど芸能にまつわるものの装いや工夫を表している。この「上方風流」は、著者はもちろんのこと、歌舞伎の四代目坂田藤十郎、喜劇の藤山寛美、狂言の茂山千之丞、義太夫節の七代目竹本住大夫が名を連ね、雑誌を出すなど上方演芸の復興を行ったという。そこでの活動の苦労話・思い出話を披露している。

米朝の遺したものは非常に大きいものであり、今日の上方落語の繁栄に大きく貢献しているといっても過言ではない。その最大の貢献者の芸談はまさに中興の歴史そのものであり、なおかつこれからの歴史がつくられるのに必要なことである。その歴史の最中に著者の辿ってきた轍が本書のようにある。