戦前日本の安全保障

日本における安全保障法案の改正が9月17日に参議院で可決し、成立した。しかし現在でもそれに反対する方々が訴訟の準備を始めており、まだまだ安保の火はとどまるところは知らないといえる。

しかし日本の安全保障は戦後から作られたわけではなく、大東亜戦争以前から存在していたという。本書は戦前の中でも「第一次世界大戦」の時期から、大東亜戦争にかけてどのような安全保障を行ってきたのか、そのことについて取り上げている。

第一章「第一次世界大戦期 山縣有朋の構想―帝国日本の安全保障」
長州藩閥として明治初期から陸軍に入り、陸軍卿・陸軍元帥となり、軍閥・軍事官僚として官界・政界に絶大な影響力を持った山縣有朋は中国大陸(当時の袁世凱政権)に対し協力をするような姿勢を見せていたのだが、実際の日本政府は「対華二十一カ条要求」を突きつけるなど、袁世凱政権に対し強硬な姿勢をとった。その先鞭をとっていたのが時の外相である加藤高明であったが、山縣と加藤は感情的な対立も起こしたという。

第二章「第一次世界大戦期 原敬の構想―国際協調の安全保障」
「平民宰相」として有名な原敬の外交政策として「日米連携」が基軸だった。そのきっかけとして原敬が首相に就任する以前、大熊内閣が第一次世界大戦の間にドイツ(当時のドイツ帝国)に対し宣戦布告を行った。それを行ったことにより、ドイツだけでなく、アメリカにも悪感情を招いてしまったアンチテーゼがあったためである。
また対中関係についても関係改善を図っていった。しかしその一方でシベリア出兵など対ロ関係については慎重的である一方で政府側は積極的に推進しており、その板挟みに苦しんだ。

第三章「昭和初期 浜口雄幸の構想―集団的相互安全保障」
時代は昭和へと移っていた。本章では昭和初期の象徴する内閣として浜口雄幸内閣の時の安全保障について取り上げているのだが、そこでは日米英の三国の協調関係を基軸にしつつ、国際連盟の常任理事国として、その関係も重視するような政治運営を行った。
しかし国帰りの最中に右翼団体の構成員によって銃撃されそのまま入院。その後退陣し、逝去した。

第四章「昭和初期 永田鉄山の構想―次期大戦への安全保障」
永田鉄山は陸軍の中でも統制派の首領として取り上げられることが多い。その永田の安全保障として取り上げられるのが中国大陸、その中でも満蒙と呼ばれる地域である。永田は満蒙における主権は日本にあるものであり、なおかつ強硬に主張したという。

本書で取り上げている「安全保障」はいわゆる「外交」そのものだったのかもしれない。むしろ外交によって協調関係を結んだり、対立をしたりすることによって、日本の立ち位置を明確にすることによって、国際的に秩序を保つという集団的な安全保障を行っていたという。もちろん現代でも日米同盟をはじめ、東南アジアなどの「中国包囲網」を築くなどの外交も行っているため、日本単体での安全保障も行いながら、諸外国との関係からの集団的な安全保障も行われている。