人と芸術とアンドロイド― 私はなぜロボットを作るのか

技術革新の波は止まるところを知らず、アンドロイドやAI(人工知能)も日々進化している。アンドロイドの分野でもホンダのASIMO(アシモ)の誕生をきっかけに様々なロボットが開発されるようになった。先の被害日本大震災における福島第一原発事故の処理でもロボットが活躍したのは記憶に新しい。
そのロボットがどうして作られていったのか、そしてロボットはどのように進化していくのか、本書はヒト型ロボットの研究の最前線に立つ側からその未来を考察している。

第1章「アートの街のジェミノイド」
本書はただロボットの未来を考察しているわけではなく、ロボットと「芸術」との親和性についても取り上げている。その考察を行うにあたり、本章ではオーストリアのリンツというところに赴いている。そこには「メディアアートの街」を象徴づける「アルスエロクトロニカセンター」があるといいう。

第2章「ジェミノイドを作ってわかったこと―人々の疑問に答える」
そもそも「ジェミノイド」とは何かというと、

「ジェミノイドは、呼吸に伴う方の上下動や、表情の変化といった動きが、非常に人間らしく再現されている」(p.20より)

「従来の「アンドロイド」という言葉は使わず、「双子座」を意味する“gemini”と「もどき」を意味する“oid”を組み合わせて、「ジェミノイド(Geminoid)」という造語をATR知能ロボティクス研究所のなかで考え出した」(p.21より)

という。本章にもジェミノイドの写真があったのだが、簡単に言うと外見はアンドロイドでできた一種の「クローン」であるが、行動は方の運動や表情の変化を再現するだけの存在である。もちろんその再現は遠隔操作が可能であるのだが、二足歩行はまだできないという。
ある意味クローンのようなロボットであるが、二足歩行や自律型ロボットになるにはまだ課題があるという。また本章ではこの「ジェミノイド」が二足歩行や自律ができるようになったときの利用方法についても取り上げている。

第3章「人間らしさを作り出す」
「ジェミノイド」を含めた「アンドロイド」のなかでこだわっている点の一つとして「人間らしさ」がある。特にジェミノイドの場合は、作られる対象と瓜二つのようにできているため、肌触りや骨格など人間らしさが求められるのだが、その「人間らしさ」が第1章で出てきた「芸術」に近づくことができるという。

第4章「人間以上のロボット、最低限の人間」
人間以上に人間らしいアンドロイドロボットもドンドン生まれており、2005年3月~9月に行われた「2005年日本国際博覧会(愛・地球博)」にも出展したほどである。そのアンドロイドはどのように人間らしくしていったのか、もちろん皮膚などの外見もあるのだが、人間としてあたり甘えにある「死」もまた再現しているという。

第5章「社会を変えるロボット・メディア」
ロボットとメディアとの関連性自体、私自身想像できない。しかしその関連性とは「電話」である。その電話とロボットを結び付け、メディアを進歩するということを著者は行っており、それがいかに社会において変化を遂げるのか、そのことについて取り上げている。

第6章「「私」は人か、ロボットか」
本書で取り上げている「ジェミノイド」について取り上げている映画として、2010年に日本で公開された「サロゲート」がある。ブルース・ウィリス主演で話題となったのだが、その映画の冒頭に著者のことについても語られているという。

第7章「作ることと生きること」
ある意味哲学的なことを問うているのが本章である。そもそも著者がアンドロイドを開発し続けているのか、その根本的なことについてもあるが、それらの問いについて著者なりの見解を答えている。

第8章「融け合う芸術と技術」
これまで「ジェミノイド」をはじめとしたアンドロイドを取り上げてきたのだが、それらの技術は、まさに「芸術」ともいえ、本章のタイトルにあるように技術・芸術がうまく融合したことによる結晶と言えよう。

ロボット開発は進化しているのだが、まさに今となっては人間に限りなく近づいているといえる。もしも人間と瓜二つのロボットが実現し、本当の意味で自律できるロボットができたのであれば、社会はどうなるのか楽しみな反面、人間としての仕事がなくなるのではないかというような不安もある。本書はそれを垣間見た一冊である。