大和屋物語――大阪ミナミの花街民俗史

花街というと様々な「遊び」を嗜むことができる場所である。その多くは京都・花街であるのだが、大阪にも花街は存在する。その場所は現在でいう所の「ミナミ」と呼ばれ、かつては「南地」と呼ばれるところである。その南は花街であるのだが、現時点で遊びのできる茶屋は一つのみである。その花街にはかつて燦然と輝く茶屋があった。その茶屋は「南地大和屋」である。その店には司馬遼太郎三代目桂米朝ら多くの人々に愛された場所でもある。その場所でどのような歴史を紡いできたのか、そのことを取り上げたのが本書である。

一章「父祐三郎(すけさぶろう)から娘純久(きく)へ」
大和屋の歴史は阪口家によって紡がれてきた。父の祐三郎は当時料亭だった大和屋を芸妓学校としてこしらえ、そして南地最大級の高級茶屋にまで成長していった。父逝去後に娘の純久が女将として店を支えるようになったのだが、尽力及ばず2003年に閉店することになった。

二章「「大和屋」のしだい」
大和屋は踊りを鑑賞することのほかに四季折々の料理を舌鼓することができるような場所だった。他にも「ええお客」と呼ばれる常連客は冒頭の方々のほかに近鉄社長だった佐伯勇氏と、サントリーの社長だった佐治敬三氏もいた。他にも政財界の支えもあり、大和屋は成長していった。

三章「南地(ミナミ)花街の歴史」
大和屋は「南地」と呼ばれた時代の象徴として挙げられる。現在でこそ「ミナミ」と呼ばれるにふさわしい歓楽街になったのだが、かつては大和屋が象徴する舞台となった。そのきっかけとなったのが「ヘラヘラ踊り」である。もっともその踊りが誕生したのは大阪ではなく東京であり、初代三遊亭萬橘(さんゆうてい まんきつ)が明治時代初期に寄席で「珍芸」として誕生させ「ステテコ踊り」の初代三遊亭圓遊(さんゆうてい えんゆう)と同じく「珍芸の四天王」としてもてはやされた。やがてそれが廃れたのだが、復活させたのは一章で取り上げた阪口祐三郎だった。関東大震災の直後から着目しそれを大和屋に取り入れ、現在も続いている踊りとして有名である。

四章「花街のおまつり」
花街のおまつりには様々なものがあるのだが、具体的にはどのようなものがあるのか、本章では大和屋で出てきた行事や祭事についてを取り上げている。

南地大和屋は2003年に閉店し、現在は別のホテルが建てられている。大和屋の閉店によって南地の花街は最初にも述べたように1店舗のみとなり、なおかつ廃れる寸前の様相となっている。その様相について指をくわえて待つしかないのか、そのことを考えてしまう一冊だった。