日本経済の心臓 証券市場誕生!

株式会社オトバンク 上田様より献本御礼。
今となってはタイトルのように「経済の心臓」としてある「証券取引所」。東京や大阪など様々な場所にあり、それを束ねるのが「日本取引所グループ」である。そのグループができあがった歴史はまさに近代の日本における「資本主義」や「経済」のあり方を示している。その歴史はいったいどのようなものか、その経緯を示している。

第1章「江戸期―証券取引の夜明け―」
江戸時代にも貨幣はあり「文(もん)」や「両(りょう)」といった貨幣はあったものの、実際に流通しているものは貨幣の他に「米」があった。もっとも藩の影響力はその米の量ではかる「石(こく)」として言われることが多く、歴史の教科書やドラマなどでも多々扱われている。
その「石」が扱われる所として「天下の台所」と言われた「大坂(現:大阪)」があり、そこでも銭や米などの取引が扱われるようになった。やがて「堂島(大阪市の北区・福島区にあたるところ)」に初めて証券市場、先物市場となる「堂島米市場」ができた。

第2章「明治・大正期―兜町と北浜―」
開国し、明治維新と同時に米欧からの経済・文化の概念が次々と流入されていった。その中でも経済では「株取引」「金銭取引」と近代的な概念が日本にも伝わるようになった。その中には「債券」や「株」と言ったものもあり、それを取引する概念も生まれた。その取引の場所として「証券取引所」があるのだが、元々設計したのは「日本資本主義の父」と言われ、第一国立銀行(後の「第一勧業銀行」、「みずほ銀行」)を設立した渋沢栄一であった。しかし設立してからは順風満帆であったわけではなく、倒産の危機もあった。その証券取引所は最初に東京の「日本橋兜町」と大阪の「北浜」と呼ばれる地域にでき、それぞれ金融街として有名になった。

第3章「昭和期―戦後の証券市場復興と隆盛―」
大東亜戦争と共に証券取引所は一時的に停止され、終戦後は再開することとなったのだが、その再開してから高度経済成長・バブルを支えるようになった。なぜ日本経済を根幹を刺さるような存在となっていったのか、その経緯も併せて取り上げている。

日本経済は多かれ少なかれ今もなお成長を続けている。それは日本取引所グループが支えていると言っても過言ではないが、そもそもその歴史もまた近代の日本経済の歴史そのものだったのかも知れない。その歴史の片鱗がここにあると言える。